冬の朝
多くの生き物が眠りにつく、静かな朝だった。
「すっげぇ……!」
吐き出した白い息が、雪景色に混ざって溶けていく。
勝己は目の前に広がる光景に、赤くなった鼻をズッと鳴らしながら感嘆の声を響かせる。
なだらかな山裾に大きく広がるオルデラ湖が、辺り一面厚い氷に閉ざされていた。木々に遮られることなく吹き抜ける風が積もりかける雪を攫い、剥き出しになった氷が透き通った空を鏡のように映し出している。勝己がそっと氷の上に足を乗せると、凍りきった水面は微塵も動く様子がなく、まるで岩のように勝己の体重を受け止めた。一歩、二歩と歩みを進めると、勝己の足跡が薄く氷の上に残っていく。
勝己は湖の中央へと目を向ける。木々に遮られることなく開けたその場所が、勝己には神秘的に思えた。産まれてこのかた木々に囲われた深い森の中で暮らしてきた勝己にとって、木に遮られることのない世界はこの湖のほとりからの景色しか思い当たるものがない。
前にも後ろにも、どこを見ても遮られない湖の真ん中。今ならそこへ歩いて行ける気がした。
「デクに教えてやろ!」
勝己は踵を返し、積もった雪を蹴り上げるようにズンズンと割って歩き始めた。湖の真ん中に行くのなら、あの弱虫も連れていってやろうと思った。きっとあの木偶の坊は一人では氷の上を歩くなんて出来やしないから、引っ張っていってやろう。勝己は服や尻尾に雪の塊がつくことも気にせず、幼馴染の羊が眠る洞窟へと一直線に轍を作り上げていく。
「わぁ……!」
真っ白に塗りつぶされた景色の向こう側で、洞窟の中に反響する感嘆の声が聞こえた。
勝己はその声に耳をぴくりと震わせ、雪に体当たりするように走り出す。目を覚ました小鳥たちが驚いて羽ばたき、枝に積もった雪をボトボトと落としながら散り散りに逃げていくなか、勝己の視線は雪の向こうに見えてきた小さな羊に捕らわれていた。
「雪だぁ!」
慌てて羽織ってきたのか、襟の乱れた羊毛の衣をぐしゃぐしゃに帯で締め、髪の間から突き出た耳をぴるぴると震わせている。一晩で辺り一面を覆いつくした雪に感動しているのか、萌葱色の瞳はきらきらと輝いているように見えた。洞窟の入口でしゃがみ込むと、降り積もった雪を小さな手の平にすくいあげて、そっと包み込む。兎の赤ん坊のようにふんわりと丸く固まった雪玉を嬉しそうに眺めると、洞窟の入口に優しく置き、手を組み合わせて祈るように瞳を閉じた。生命ですらない、溶けゆくだけの雪玉に何を祈ることがあるのか、勝己にはてんで分からない。
「デク!」
「かっちゃん!おはよぉ」
勝己は声をあげ、蹴っていた雪に体当たりをするように足をはやめる。出久はそれに気づくと嬉しそうに立ち上がり、小さな手をめいっぱいに上げて勝己に振った。
狼の勝己と羊の出久は、同じ季節の巡りの中で産まれた。
共に精霊の子として産まれ、タトゥインの山を統べる両親に守られながら育ってきた。勝己は狼の精霊である両親に狩りやケモノの扱いを教わり、出久は羊の精霊である両親に大地を恵ませる祈りを学んできた。同じ山を統べる精霊として交流の多い勝己と出久は、兄弟のようにいつも一緒に過ごしていた。自分よりも小さく未熟な出久が、自分に憧れてきらきらとした瞳を向けてくるのが、勝己はむず痒くも気分がよかった。
「行くぞ!」
「何処に?」
「いーから!」
勝己は出久の手を取り、雪の中へと引きずり込むように踵を返す。躓きそうになる出久を支えると、ぎゅっと握り返され、あたたかい体温が伝わってきた。勝己の強引な行動に迷うことなく従う出久に満足し、にんまりと赤くなった頬を綻ばせる。
「まってよぉ」
勝己は気が急いて、いつも使う道ではなく、もっと近道を通ることにした。雪に埋まる低木をよく利く鼻で嗅ぎ分けて割け、岩場は乗り越える。降り積もった雪はどんどん背が高くなり、二人の視界を覆っていく。勝己が身体で雪道を割いていくおかげで、出久は後ろをついていくだけで雪に埋もれずに済んだ。それでも、勝己に右手を引かれながら歩くのは難儀なようで、時折足をもつれさせては勝己の腕を引っ張る。
「ねえ!何処に行くの!」
「行けば分かるって!」
「ぼく歩きにくくて、ッ」
繋いでいた手がふいに離れ振り返ると、出久は乱れて脱げかけた上衣を締め直していた。勝己は時折振り返りながらも、出久を置いてズンズンと前を進んでいく。
「はやくしろ!」
勝己と出久の間には次第に距離が開いていく。羊の毛で膨らんだ身体をよたよたと振りながら出久は一所懸命に進むが、同じように着膨れているにも関わらず普段通りに進んでいく勝己には到底及ばなかった。勝己はケモノ道ですらない雪に埋もれた藪の中を、すいすいと蛇行しながら進んでいく。
「――っちゃ、!」
ふと、背後から気配が遠のいた。背中に絶え間なく感じていたはずの出久の視線が、ぷつりと途絶える。
「デク?」
焦って発した声は積もった雪に吸われてしまっているのか、返事は聞こえない。辺りをぐるぐると見渡すと、前にも後ろにも同じような雪の道が続いていた。鼻をひくつかせても雪の冷たいにおいばかりで、出久の温かい匂いはどこにも見つからなかった。目的地への道は分かっているはずなのに、急に終わりのない迷路に迷い込んだようでぞっとする。
「デク!」
「……ちゃ」
「いずく!」
頭から突き出た耳を前後へと傾け、微かに聞き取った声の方へと、勝己は体当たりするように突き進む。すぐに出久の身体にぶつかり、ふわりと日向のような匂いに包まれた。勝己はうるうると目を滲ませる出久の手をもう一度握り、前に向き直す。
「おっせーんだよ」
「ごめん……」
目的地はすぐそこにあった。視界は突然に開け、氷に覆われた湖が広がっている。
「わ……」
勝己は惚ける出久を見てニシシと歯を見せて笑う。氷の下覗き込むと、光の届かない水の底が真っ黒に透けていた。時折ぬっと魚の影が横切り、深くに広がる水の世界が分かる。
「オルデラ湖がぜんぶ凍っちゃったんだ」
「すげーだろ」
勝己はゆっくりと、足を滑らせながら湖の中心に向かって歩き始める。後ろで出久の「待って」と焦った声が聞こえた。恐怖心から足が竦んで、湖の畔でウジウジとして、どんどん遠ざかっていく勝己を追いかけるようにそっと一歩を踏み出す。いつだって、出久は勝己の後ろをついてきた。だから勝己は振り返らなくても、音だけでその様子が手に取るように分かった。二人だけの足跡が、透明な世界に伸びていく。
「でっけー空!」
勝己は氷の上に寝そべり、大の字になって空を見上げる。出久はまだ怖いのかオドオドと辺りを見渡し、その場に立ちすくんでいた。湖の真ん中で、陸地までは随分と距離がある。今この場で氷が割れてしまったらと思うと、勝己のように足を投げ出すことが出来ないのだ。
「冷たくない?」
勝己は大きな空から、自分を見下ろす出久に視線を向ける。
「よゆー」
出久はおずおずと勝己の隣に手をつき、意を決して氷の上に身を投げ出した。天を見上げた瞬間、思わず息を呑んでいるのが分かる。勝己が視線を空へ戻すと、静かに澄んだ空の中、一羽の鳥が自由に飛んでいた。木々に遮られることのない大きな青い空は、二人が産まれて初めて見る本当の世界の広さだった。
「わぁ……!」
灰色の雲は雪を落としきり、すでに空から姿を消していた。
出久は言葉に出来ない想いが溢れ、口をあんぐりと開けて視界の中をくるくると回る鳥を眺める。普段見かける鳥たちよりもずっと高いところを飛んでいて、その種類すらこちらからは分からない。草木が揺れる音が遠く、ひゅうひゅうと吹き込む風の鳴き声が冷えた耳を通り抜けていく。
「すごい……!」
喜びを隠せない出久の横顔を、勝己は誇らしげに、けれどどこか照れくさそうに盗み見た。自分が居なければ見せられなかった景色だという自負が、勝己の口角を緩ませる。
「綺麗だねぇ……」
「だろ!」
「どんな世界なんだろ……」
「は?」
出久の言葉に勝己はにやけていた顔を元に戻す。顔を横に向けると、出久は相変わらずきらきらとした瞳で上を見上げていた。
「あの鳥さん、どんなふうに見えてるのかなって」
「そんなん知らねーよ」
「ね……僕らには一生見えない景色なのかなぁ」
出久は変わらず嬉しそうな顔で、二人の上を飛ぶ鳥を眺めている。「木を上から見るってどんな感じなんだろ」と呟きながら、楽しそうに空想を広げていた。
「大人になって、此処よりもでっけー山任されたら見えんだろ」
「でっけー山?」
「そー!俺はすげー精霊になって、いっちゃんすげー山をもらうんだ」
勝己は空へと視線を戻し、自分を見つめる出久の視線を頬に感じていた。
「かっちゃんなら貰えるねぇ」
「そしたらデクにも見せてやる」
「ほんと?やったぁ!」
勝己は空を睨みつけたまま、内心の昂ぶりを噛みしめていた。いつか必ず、誰もが跪くような一番の山を治める。羽がなくたって、空を飛ぶ鳥よりもずっとすごい景色を俺は見せられる。湖に吹き込む、髪をかきまぜている強い風が、勝己の決意を鼓舞しているように感じた。
厚く張った氷の下から、ごうごうと水の巡る音が響いていた。