僕は友だちが少なくて、夏休みは家にいることが多かった。
窓の外から聞きなれた声がしたら、ベランダに出て覗き見ていた頃もあった。
ゆっくり窓を開けて、ガタガタ鳴りかねない網戸を少し浮かしながら横にズラして、隙間から身体を外に出す。
ベランダの手すりに持たれて、遠ざかっていく背中を眺めている時間。何の意味もなかった。
部屋に戻る。窓を締めると蝉の声も遠くなり、汗だくの自分だけが残る。
「ー!ーーー!」
職員室の小さなドラム缶テレビは、音質が悪いものの彼の罵声を部屋に響かせている。
相澤先生の小さなため息が聞こえた。周りからも続いて苦笑が聞こえる。
こちらに向けられる視線に苦笑いで応えて、パソコンへと目を落とした。
アナウンサーは彼の活躍を実況し続けている。
チャートが上がらなくても、検挙率は高いらしい。彼の名前は頻繁に地上波で流れた。
「次の実技のゲスト決めたのか」
「ああ、チャージズマが捕まりましたよ」
「…そうか」
彼だけは名前を上げない僕に、相澤先生は何も言わなかった。
「生徒が彼の素行を真似したら困るでしょう」とか、適当な言い訳は用意している。
誰も誤魔化せない稚拙な理由であることは分かっている。戦闘訓練なら彼を呼ばない理由はない。
でも、彼じゃなくても良い授業になるなら、敢えて呼ぶこともない。
相澤先生が担当の時には呼ばれているから、生徒の不利益にもなっていない。
ただ、大戦を知っている生徒達からは僕らの同席を期待される。
僕はそのたびに事務仕事が忙しいような気がして職員室から出られなくなる。
「ーーーーーーーーー!ーーーーーーーーーッ!!!!!」
アナウンサーへの罵倒が聞こえる。
高校を卒業してから7年、メディアを介して彼を見ている。
同窓会にも一度も出たことはない。個別には会うけれど、全体の呑み会には行かない。
みんな休みが会うわけではないから、都度欠席者はいるらしい。
そうであれば、僕の不参加もそこまで目立つことではないんだろう。
「ーーーー!!!ーーーーー!!!!」
僕以外は全員がプロヒーローになった。
みんなが集まれば、当然プロの仕事の話になる。
僕にはそこに混じる勇気はなかった。
個別に聞くので十分だから。僕が混じっては話が濁ってしまうし、水を差したくはない。
「今、大・爆・殺・神ダイナマイトがーーーー」
ノートパソコンのタイピングもこの7年でかなり早く打てるようになった。
中学の頃は何も思わなかったキーボードは、大学にあがって随分と小さく狭苦しいものに感じた。
僕の手は歪んでいて指も一般より太い。A4一枚のレポートを作るにも、当時はずいぶんと苦労した。
「邪魔なんだよ!」
カメラ前に彼の顔が寄る。マイクを向けられてかなり機嫌が悪いらしく、随分と凶悪な顔をしている。
「どけや!」
マスクの端が少し切れている。今回の戦闘で切れたんだろう。
ジーニアス所属の彼は5年目を過ぎた頃から独立の噂が出ているらしい。
検挙率を見れば当然のことだけれど、一向にその影は見えない。
自分の事務所を持つのは彼の夢だったはずだから、当然すぐに独立するものだと思っていた。
事実もうそれが出来るポジションに彼はいる。
よっぽどいいビルに事務所を入れたいんだろうか?
それとも、いきなり自社ビルを建てるつもり?
「あーあ」
相澤先生は呆れている。
仕事に戻らないあたり、かっちゃんの活躍を喜んではいるようだ。
(そもそも)
彼と会話をしなくなって7年。
メディアでしか彼の近況を知らないのだから、彼の今の心境なんて知る余地もない。
もう適齢期だし、独立よりも安定を取っていたりして?
そんなこと、天地がひっくり返ってもないと思う。けれど。彼の今を僕はしらない。
安定させたい相手がいる可能性はある。
「緑谷」
「はい?」
相澤先生はテレビから目を離して、僕へと顔を向けた。
パソコンから手を離して椅子を回す。
「今日いけるか」
「あー、いいですね」
コーヒーを片手に持った相澤先生の口角が緩く上がる。
ゼリー以外を口に入れる相澤先生も随分と見慣れた。
つい先日髪を短くされて、雰囲気が一層優しくなったように思う。
「鶏がいいな」
「僕揚げ物の気分です」
「じゃあ、裏にするか」
先生はカップの中のコーヒーを一気に煽ると、席に向き直った。
ノートパソコンを開いてマウスを動かしている。
「お前下戸の顔してるのにな」
大学で雑なお酒の呑み方を知って、先生には社会人のお酒の呑み方を教わった。
「どんな顔ですか」
「鏡みろ」
とは言っても、先生は僕にお酌をさせてくれない。手酌が好きらしい。
タレのかかった鶏レバーに先生が一味をふりかける。
「僕のハツにもかかってますよ」
「すこしだろ」
これ以上かけられる前にハツを自分の皿に避難させる。
別に一味がかかっていても嫌じゃない。今日は気分じゃないだけ。
「クソナードか?」
「え」
相澤先生はイタズラっぽく笑って、生ビールを飲み干した。カウンターの向こうに追加を2杯頼んでいる。
「お前らのことで探り入れられる俺の身にもなれ」
「なんですかそれ」
2つ運ばれてきたジョッキの1つが僕の前に置かれる。
慌てて残っていた分を飲み干して、空のジョッキを2つ返した。
「お前の同期と会うたびに俺が聞かれるんだよ」
「何を」
「守秘義務」
「ええ?」
塩軟骨を相澤先生がかじる。
バリバリ音が響いている。此処の軟骨は随分と大きくて鋭利で硬くて、美味しい。
「それ僕が頼んだやつですよ」
「図太くなったもんだなぁ」
「…先生のコロッケも1個もらいますからね」
僕とかっちゃんは高校で随分と仲が落ち着いた。
仲良くなったとも違う。荒れていたのが落ち着いたんだ。
あの戦いでかっちゃんは一時的に障害を持った。
リハビリで回復していく彼と、残り火を失っていく僕の力は反比例していくように差が出来ていった。
高校2年の頃は、彼が右腕を使わずに戦うことに慣れるよう、僕は特訓に付き合った。
高校3年の頃は、残り火を失う僕が無個性でも卒業できるよう、彼が僕の特訓に付き合ってくれた。
この学校の門を一緒に出て、家族ぐるみで一緒に地元に帰って
そうして卒業して、7年。
かっちゃんは地元を出てジーニアスに所属していて、僕は実家に住み続けている。
会う理由も、連絡をする理由もない。
「飯田や轟とはよく会ってるんだろ」
「2人がこっちに来てる時だけですよ」
中学の頃の方がまだ、彼のことが分かった。
彼の個性だけをまとめたノートは、ここ7年書き加えられていない。
「クソナードだな」
「先生めずらしく嫌なやつですね」
「生意気」
くつくつ楽しそうに笑って、相澤先生はジョッキを傾ける。
「まあお前ららしいかもな」
「アジフライも食べないならもらいますよ」
「さっき一個食っただろ」
右手も左と変わりないくらい爆破が安定するようになっていた。
もう左で調整しなくても、両腕で安定して空中を飛べている。
右手でもAPショットが撃てていた。
コスチュームも少しずつ変わっている。
「先生だってマイク先生以外の同期とゴハン行かないじゃないですか」
「お前が知らんだけで行ってるわ」
「えー」
緩く笑って相澤先生は品書きを撫でる。そろそろ締めを頼むのかもしれない。
僕はかっちゃんを7年前から更新していない。
テレビの中の彼を盗み見て、活躍を知って、それだけ。
かっちゃんもきっと同じで、だから交流もしていない。
「僕はこれが天職だと思ってますよ」
「…まぁ、向いてなくはないな」
「そこは素直に肯定してくださいよ」
学校の裏手にある小さな居酒屋を出て、とぼとぼと相澤先生と帰路につく。
遠くで花火のような破裂音が聞こえる。空を見上げると、ビルの間に何度も爆発が見えた。
「よく働くなぁ」
「ルーキーですね」
昔何度も見た光。遠く離れていれば、記憶の中と同じなんじゃないかと錯覚出来る。
「じゃあな」
「ごちそうさまでした」
先生と離れて、駅へと向かう。
何度も君と一緒に歩いた道。
何度も君を怒らせて、僕はその度に爆破された。
ーーーークソが!
空を見上げると、遠くで一際大きな光が見えた。
「……、」
声が聞こえるような距離じゃない。
スマホを出して、駅の構内へと入る。
人の声が響いて、もう空も見えない。
「ーーークンだっけ、あの子さ」
上鳴君の個性は派手で、明確で、だからこそ対策を取られやすい。
それを超える経験も勘も持っているからヒーローとして活躍していて、それらを生徒にも分けてあげられる。
「インターンでしょ?」
「そーそ」
「本人も上鳴くんとこ行きたがると思うよ」
鞄から出したノートのページを開いて、上鳴くんに見せた。
生徒の特長や講評をウイスキー片手に読み、楽しそうに笑っている。
「上手く育ててサイドキックに呼びてー」
「気がはやいよ」
上鳴君は卒業した頃よりも随分と体格がよくなった。
高校3年間でも変わっていたし、7年も経てば当然だと思う。
がっしりしたし、身長だって伸びた。
「そうか?」
「…そうでもないかな?」
7年も経てば、インターン生を自分の部下にしたいと思うようにもなるのか。
僕はまだ社会人3年目だけれど、上鳴君は7年目。
もう新人じゃない。
「ぜってー相性いいじゃん」
「そうだね」
楽しそうな上鳴君にペンを渡すと、グラスを置いて思案しながら何やら書き込みはじめた。
綺麗に丸くカットされた氷が琥珀色の中で揺れている。
上鳴君の好きそうな見た目だ。
「誘導よろしくなー」
「それはどうかな」
「えーデクせんせー」
自分の手元にある、上鳴君と全く同じグラスの中身を口の中に入れる。
氷が少し溶けてはいても、舌の上を滑る液体が気化しながら上顎と喉の奥を刺して、脳を揺らす。
「ぼくは座学と体術だけだし」
「担任じゃん」
命をかけた実践ほど、実力の底上げがなされる機会はない。
それは学校の実技では決して生徒に経験させることが出来ず、あくまでそうした実践を生き残るための知恵と、身体を作らせるに限る。
だからこそ早々にインターンで現場に出して、本物を見させる。
僕らの世代の、特に一年生の頃はその前提が大きく崩されていたけれど。
「みんなすぐサイドキック捕まえてっからさぁ」
「たしかに、凄いよね」
「基本ソロで動いてんの、後は俺とダイナマくらいかもなぁ」
「…そっか」
琥珀から飛び出た丸い氷を指でなぞる。
僕の体温で溶けた水が少しでも混ざるよう、ゆっくり熱を押し当てて回す。
「アイツは色々激し過ぎるから、連いていけるヤツ限られるんだろーなあ」
「…うん」
グラスの中身を一気に呷る。
バーの向こうから注文を促され、上鳴君は楽しそうに自分のグラスも空けた。
いつだって追いかけていた。
だから、高校3年間は夢のようだった。
背中ばかり見ていた彼が振り向いて僕を見てくれて、僕はその背中に手を伸ばすことを許された。
「緑谷まだいける?」
「うん」
バーテンダーと上鳴君は並んでいるビンを眺めながら、次のお酒を選んでいる。
彼のサイドキックになって、彼を追いかけて支えていく人は、どんな人なんだろう。
ストイックな彼は妥協は許さないし、半端な覚悟では近づくことさえ叶わない。
「また俺と同じの?」
「うん」
「うんしか言わねーじゃん」と上鳴君が笑う。
バーテンダーはつられて緩く微笑みながら、氷のブロックを削り始めた。
こういう演出が入るところも、上鳴君が好きなポイントなんだろう。
オールマイトはすぐに個性を使いこなせたと聞いた。
つまり引き継いだ時には既に身体もある程度出来ていたし、そもそもそういう素質があったってことだ。
一方の僕は、願いこそすれど個性しか目に入っていなかった。
「じゃーなぁ~!」
「ん~おやすみぃ」
上鳴君は真っ赤な顔でフラフラしながら、駅と反対方向へと歩いていった。
僕も久しぶりに覚束ない足をヨロヨロと駅に向ける。
繁華街の光がキラキラ混ざって綺麗で、気持ちいい。
「本日16時頃、ーーーーで起きた立てこもり事件ですがーーー」
大型ビジョンに映されたニュースの中で、ビルから人質を抱えて出てくる幼馴染が見えた。
また働いてる。そりゃそうか、夢だったんだから。
ビジョンから目を逸らして、繫華街の脇道へと近道に入る。
壁のそこかしこにラクガキされていて、人気もなくて薄暗い。
個性さえあれば僕は、きっとヒーローになれる。
ノートと鉛筆を握り締めてそんなことを夢見るヒョロヒョロの僕は、どんなに滑稽だったんだろう。
「お兄さん、大丈夫ですか」
「…んぇ」
本気でヒーローを目指して、どうするべきかを見据えていた君にとっては、すごく腹立たしいものだったんだ。
視線の端に紺色の制服が映る。
「おまわりさん」
「…危ないんで、もう少し明るい道通ってください」
年齢確認せずにそんなことを言ってくる警官は初めてだった。
身長は少し大きくなったし、顔だって自分としては変わったと思う。
でも周りの誰もがそれに賛同してくれなくて、お酒もすんなり買えたことがない。
運転免許証は定期券と一緒にすぐに出せる所で携帯するようになった。
「んー…」
「…聞いてんのか」
表通りからの色んな音や声と混ざって、なんとなく聞きなれた声なような、そんな気もしてくる。
それにしては声が低いし、なんだか威圧感もある。
僕の声は変わったのだろうか。
変声期なわけではないし、大して変わっていないのかもしれない。
でも、いつかは渋い大人の声を出してみたい。
髭剃りだって毎日してる。
以前相澤先生の真似をして少し生やしてみたら、不評過ぎて職員室で剃られた。
「だいじょうぶですよ」
「……」
目線を上げると、制服警官の胸元が映る。
「おまわりさん、おっきいですねぇ」
「あ?」
オールマイトみたいに大きくてガッチリした身体になるのに憧れていた。
でも、素質もだし、身体をつくり始めるのがきっと遅すぎた。
「どんなトレーニングしてるんですかぁ」
「……ウゼェ」
「えぇ」
おまわりさんは上げようとした僕の頭をグイグイ押し下げて、さっさと何処かへ行ってしまった。
随分と口が悪かった。でも、あんなお巡りさんが見てくれているなら、この街は安心だ。
ビジョンはまだ彼のニュースを流し続けている。
此処からそう遠くない場所での立てこもり事件も、彼はサイドキック無しで終わらせた。
「……」
僕の生徒がそうなればいいな、と思う。
彼を支えられる速さと、パワーと、勘を持ったヒーローの卵を体育祭で見せればいい。
インターンに呼んでくれるかは分からないし、彼が体育祭の中継を見ているかは定かではないけれど。
それが僕に出来る唯一だと思う。
薄暗い路地裏を抜けると、眩しいくらいの駅の光が見えた。
小さい頃、はじめてハイカットのスニーカーを買ってもらって、何処に行くにも履いていた。
足首が上手く動かなくて何度も転んだけど、大きな靴が視界に入ると格好良くて嬉しかった。
今まで履いていた靴よりも重くて、歩いているだけでうんと疲れてしまった。
歩幅も狭くなったし、足を持ち上げるのが大変で何度も転んだ。
お母さんは何度も小さな靴を勧めてた。
(待ってよ、)
それでも僕はその靴を辞めなかった。
(待って、かっちゃん)
(どんくせーなぁ)
転んだって置いていかれたって、その靴がよかった。
重くて硬くて上手く歩けないけど、真っ赤で格好良くて。
歩いてる って感じれるのが好きだった。
ずんずん歩いて、進んだ。君が進んだ道を歩いていた。
「お母さん、ストッキング破れたのある?」
「珍しー…」
靴箱の中にひっそり置かれた紙箱を開くと、丸められたストッキングがいくつか入っている。
ブラシで汚れを払った革靴に、ストッキングにつけたクリーナーを少しのせてみた。
乾ききってガサガサの革靴に少し艶が出る。
「授業参観とか?」
「んー…そんなとこ」
そういえば、かっちゃんは昔から通学は革靴だったな。
クリーナーを拭って、また乗せる。
同じことを繰り返して、仕上げのクリームを乗せて艶を出して、仕上げる。
こんな手間なことを子どもの頃からやってたなんて、君らしいというか。
「出来る男は靴に拘るって言うからね!」
「僕と真逆の人たちの話じゃん」
開けっ放しの靴箱の中から、真っ赤なスニーカーがひっそり覗いている。
学校の授業用とは別の、プライベートの靴。
もういつから履いてないのか、思い出せない。サイズアウトしてるかも。
なんとなく、休日は履くのが楽な靴でいっか、って、いつから思うようになったんだろう。
(待って?)
追いかける術がない僕が、もう口にすることもない。
(行って)
もう僕は、君を追いかけない。
(もっと遠くに、)
僕は僕の道を進むことにしたんだ。
(僕の知らないところに)
仕事は楽しい。
(僕が見えないところに)
僕の天職。
ヒーローオタクの腕の見せどころなんだよ。
(行って)
艶を出して、傷も目立たなくなった靴を土間に並べて、靴箱を閉じる。
持ち帰った仕事を片付けないと。日曜が終わっちゃう。
「お前呑ませすぎなんだよ」
四半期の報告が終わった。資金繰りも悪くなく、ようやく順調といっていい状態になった。
「いやアイツ結構呑むんだよ、楽しくなっちゃってさ」
「知っとるわ」
「呑んだことねーくせに」
「あ?」
3月のうちには間に合わない。4月を過ぎる。
そうすると来年の3月まではアイツは担任を降りない。兼業させるが。
「凄かったよ、普通に実践も生徒の相手してたわ」
「…たりめーだろ」
「なんか軽業するようになってた。ぜってー相澤先生だわ」
「…」
「捕縛布肩に抱えたりもしてさ、心操にも見せてぇ」
黒鞭と似てんだろ。使いこなせて当然だわ。
「授業後にステゴロ頼んだんだけど、普通に負けたわ」
「は、ザコ」
「いやお前もわかんねーよ?」
皿の上の檸檬をつまんで、前に向かって潰す。
「うわっ…ァ、アーーー!目が!!」
「ざまあ」
アホ面晒して目を擦るバカにお絞りを放ると、ブツブツ言いながら拭い始めた。
俺が負けるわけないだろ。
アイツは俺の下だ。負けねぇ。
中学の、出久とはつるまなくなっていた頃。
長期休みにアイツの家の前を通り過ぎると、窓が開くことがあった。
やけにゆっくり開くからダセェなってその時は思ってた。
ダチのいねぇヤツが羨んでんのか、余計にダセェ。
今日は開くか、帰りは開くか。
惨めなヤツを見たくて、通り過ぎるたびに耳をすませてた。
わざとデカイ声を出して、アイツをおびき寄せてた。
気になんのか、なら見ろや。
アイツを下に見てた。勝った気になってた。
いつだって俺は出久に勝ちたい。
「今の出久に勝ったって意味ねーんだよ」
見るだけでいいんか、お前は。
いいんだよな、そういう奴だよ。自分のことには。
だからこれは俺が、俺のためにやってることだ。
俺は出久に勝ちたい。完膚なきまでに叩き潰す。
結局出久の最高の強さで戦えてないんだから、まだ俺は勝てていない。
「ちゃんと整えてからやらねーとな」
アレを渡したらしばき倒してやる。
死ぬ気で追い付いてこい。俺は進んでる。
1年目。同窓会を土曜日にセットするなんて何処の馬鹿なんだと思った。
新人の俺たちが土日に休めるわけがない。ただえさえ土日は事件が多い。
どこの事務所も人員を増やしてる。
グループチャットで幹事として張りきった動きをしていたのは、丸顔中心の女共だった。
アイツは来なかったらしい。
2年目。土曜日に開かれる同窓会。
その年の幹事は委員長だった。アイツは欠席。
3年目、土曜日。轟が幹事のはずだが、結局飯田が回してた。アイツは来なかったらしい。
4年目も5年目も同じ。いい加減アイツ等も声かけるのを辞めればいいだろうに。
6年目、7年目。
土曜日の意味に、アイツが気付かないはずもない。
出久の席はノート類が多く他の席よりもゴチャついている。
今時データ管理はPCでやるもんだろ。
「先店行ってろ」
「ン」
相澤先生はPCに向き合いながら背中越しに俺に声をかける。
がっつり鍵が閉められた引き出しの中もノートが詰まっているに違いない。きめぇ。
くたびれた椅子の傍に随分とテカテカした革靴が揃えて置かれている。
前回来た時はガッサガサでみすぼらしいモンだったが、何かあんのか。
「ーーー今のいいね!」
更衣室への道すがらに出久の声が聞こえる。
窓の外を見下ろせば、スーツのまま生徒の相手をする様子が見えた。
「さすが!」
靴を磨いたところで、スーツがあんな泥だらけになってたらダメだろ。
相変わらずクソだな。
(さすがかっちゃん!)
「お前から誘え」と耳が痛くなるほど四方八方から言われ続けて8年目になる。
なんでだ。俺じゃないだろ。
アイツが自分の意思で欠席を選択をしてるなら、それでいいだろ。
例えばこれが、この学校を卒業した年の3月中であれば、まだ違ったかもしれない。
俺は街を出て、アイツは残った。
俺はプロになって、アイツは学生になった。
(俺じゃない)
来客用のロッカーの横には常勤職員のロッカーがある。
例えばゲストの俺が此処でしばらく時間を潰していれば、出久は汚れたスーツを着替えに此処に来るだろう。
(無個性のてめェが)
もしくは先生を待って、また職員室に戻って時間を潰せばいい。
アイツは靴を履き替えに戻ってくる。
(俺と同じ土俵に立てるわけねェだろ)
呪いだろ。言霊みてェなもん。
オレが言った通りになった。
出久を否定し続けた俺がプロになった。
(最高のヒーローに僕も)
出久は掴みかけたそれを、あの時全部手放した。
伸ばした腕ごと全部投げつけたアイツは、映像の中で確かにヒーローだった。
俺じゃない。
出久の前でヒーローを気取るのは、俺だけは違う。
卒業して新居へと移って、アイツを呼んでやろうかと思った時。
何処に飾ろうか保管しようかと持て余したオールマイトのカードを見て、それが出来なくなった。
アイツだったら、コレはリビングにでも飾るんだろうな。
(オールマイトみたいな!)
分かっていた。無個性になっていく状況も常に把握するようにしてた。
出久の進路も、それが何を求めてのことなのかも、分かったつもりでいた。
それでも、あの街を出て、やっと自分が出久と違う向きに進み始めたことを実感した。
いつでも俺の視界をチラついていたアイツは、もういない。
「んで、緑谷の話だろ」
相澤先生は手酌が好きだ。焼き鳥には一味をかけるし、酔いが回ると品書きを弄りはじめる。
「雄英教師って副業できるンすか」
「出来るわけないだろ」
俺の酒がまだ空いてなくても勝手に頼む。最初のうちは何呑むか聞いてきてた気がするが、いつから無くなったのか。
「”副業”はな。お前らの事務所が俺らでいう学校みたいなもんだ」
「じゃー使っていいんすね」
「本業に差し支えさせるなよ」
「どっちも本業なんだろ」
相澤先生の手が俺の頭に乗る。
「…よく頑張ったなぁ」
いい年したオッサンが自分よりデカイ男に何やっとんだ。
「…………やめろ」
もう少し、あと少し。
出久が先生になって4回目の4月。
毎シーズン1着ずつ買い足しているスーツは、今年からセットで2万円じゃなくなった。
いつもデスクチェアに掛けられていたのに、この春からは帰ったら必ずハンガーにかけられている。
週末には必ず靴を手入れして、最近はリュックも革の物を探しているみたい。
毎年4月にプレゼントするようになったネクタイも、今年はちょっといい物をあげてみたりして。
かっこいいよって何度も伝えて、その度に出久は嬉しそうに、恥ずかしそうに笑ってた。
「はぁい」
チャイムの音が鳴り、剥いていた玉葱をザルに戻す。
インターホンカメラが見下ろすように写すのは、見知った髪色の俯いた頭頂部。
「……勝己くん?」
「…お久しぶりです」
顔を上げた勝己君は、小さく頭を下げた。
カメラ越しに合っていた目はすぐに逸らされてしまう。
いつもテレビで見ている様子とは、明らかに違う。
もう何年もこの家には来ていない。
「…ごめんね、出久いないんだ」
ゾワゾワする。
小さい頃から知っている子なのに、嫌、かもしれない。
「大丈夫です。おばさんに話があって来ました」
勝己君はまたカメラを見上げて、真っ直ぐ見つめて、今度は逸らさない。
「…なにかなぁ…今、開けるね」
開けちゃダメ。帰ってもらおう。
夕飯作らなくちゃ、出久が好きなカツ丼だから、揚げ物しなきゃ。
まだ、下拵え何にも済んでない。
「すみません」
勝己君は出したお茶にも手をつけずに、椅子にも座らずに、頭を下げる。
「…どうしたの、いつものヒーローじゃないね」
私も座る気になれなかった。
勝己君は立ったままの私を見下ろすと、視線を逸らしてフローリングに膝をつく。
彼の頭は低くなって、また私は勝己君を見下ろしている。
「おばさんにとっては、謝って済むことじゃない、ですけど」
聞きたくない。終わらせたい。
怒りとか、悲しみとかよりもずっと。
「出久を、ヒーローに戻す準備が出来ました」
何処にもそれを向けることが出来ない絶望で、目の前がいっぱいになる。
「俺が、出久にも黙って進めました」
出久は時々うなされて夜中に起きて、ベランダに出る。
遠くをずっと見つめてた。もう飛べないのに、ずっと先を見てた。
朝のヒーローニュースをぼんやり見ている横顔が、いつまで経っても寂しそうなのも気付いてた。
きっと本当は、雄英なんて、ヒーローなんて関係ない職場で働いた方が出久は辛くない。
でも出久がそれを望むなら、その道を進もうと頑張っているなら、私は全力で応援しようと思えた。
「ごめんなさい」
床に頭を下げる勝己君が、10年前のオールマイトさんと重なる。
出久がどうやってヒーローに戻るのか、勝己君は説明してくれている。
もう、出久が戦う必要は無くなったんじゃないの。
出久は別の道をちゃんと進めているのに、どうして戻そうとするの。
あんな危ないところに。勝己君だって知ってるのに。
どうして、私にそれを言うの。
出久にどんな顔をすればいいの。
応援できないよ、先生でいてよ。
かっこいいよ、出久の先生。とっても素敵な私のヒーロー。
「っ、」
勝己君は頭を下げたまま動かない。
出久は絶対に喜ぶよ。
どんなに沢山酷い怪我をしたって、あの頃の出久はいちばんキラキラしてた。
私は心がいくつあっても足りないくらい苦しかった。
出久はボロボロになっていくのに、何も傷ついていない私の方が壊れそうだった。
「そ、っか」
私には、それしか絞り出すことが出来ない。
吐きそう。苦しい。
握り込んだ手がぶるぶる震えて、涙が床に落ちていく。
ずるいよ。もう止められない時に報告に来るなんて。
最初に、お金を集める前に言ってくれたら、もっと反対出来たのに。
出来ないよ。また掴める出久の夢を、私が取り上げることなんて。
「勝己くんは、正しいよ」
最初に私に話を通さなかったこと。
後戻り出来ない時になって、こうやって私を堕としに来るところ。
正しいよ、全部。出久にとって、障害が何もない。
勝己君は、出久のヒーローだね。
じゃあ、私はヴィランになっちゃうのかな?
出久、よかったね。またヒーローに戻れるよ。
もう、寂しくない。辛くないよ。
夢が叶うよ。出久はヒーローになれるよ。
「…おばさん」
「…ご、めんね」
きっと出久のために、沢山我慢して、沢山働いて、お金を集めてくれた。
8年も出久のために。それにこうして、私にところにも来てくれた。
「ッ…帰って…」
彼にこんな仕打ちをしちゃいけない。
間違っているのは、私だけ。
「どう、かな」
傍に置かれたビールの泡が少しずつ萎んでいく。
びっくりするくらい身体に沿って落ち着いたナノマシンは、腰を捻っても腕を上げ下げしても、手を握り込んでも、僕の筋肉に寄り添うように収縮して着いている。
皆が思ってるみたいに、僕はこれを着れているのかな。
「っぅぐ、」
鼻を啜る音が聞こえて、顔を上げる。
「デクくん、や…ッ」
麗日さんは大きな目が歪んで見えるほどに涙を浮かべて、震えた顎で口角を上げた。
「おかえり゛ぃ…!」
睫毛に乗っていた涙がこぼれて、頬を濡らす。
「ッた、ただいま…」
雄叫びみたいな声が響いて、耳が割れそうなくらいだった。
「じゃ、私は帰るね」
「えっ」
「試着しにいく」とオールマイトにタクシーに連れ込まれて、着いた場所は居酒屋だった。
貸し切りにされた店は仕切りを取り去られて一つの箱になっていて、20人とオールマイトにヒーローデクの復活に乾杯をしてもらった。
「おじいさんは早寝なんだよ」
「オールマイトはおじいさんじゃありません!」
「お酒も控えてるしさ、また性能テストには参加するから」
入店したまま下座で座っていたオールマイトは、烏龍茶のジョッキを勢いよく開けて席を立つ。
「じ、じゃあ送ります!」
「主役が抜けてどうすんの」
タクシー呼んだから大丈夫だよ、とオールマイトはスマホの画面をこちらへ向ける。
アプリで呼び出されたらしいタクシーは既に店のすぐ近くまで迫っている。
「でも、」
靴を履いて座敷を降りるオールマイトを追って、腰を上げる。
タクシーに乗るところまで見送って、お礼を言って、また店に戻って来ればいい。
「座ってろ」
通路側から伸びた手が頭を押し下げて、僕は座敷に戻された。
私服だ。ヒーロースーツを着ていない姿は見慣れなくて、なんとなく目をそらす。
「俺が行く」
「いいのに、ありがとうね」
オールマイトは僕らに手を振って、かっちゃんと一緒に店を出ていった。
切島くんたちと一緒に奥の方で呑んでいたのに、いつの間にこっちに来てたんだろ。
「爆豪くんが頼んだんよ」
「え?」
「スーツ渡すのも、デクくんを此処に連れて来るのも」
麗日さんはビールの泡を口に乗せて、顔を溶けそうなくらい綻ばせている。
「やっと…みんな、そろったぁ」
涙で乾いた身体を潤すみたいに、麗日さんはジョッキを呷っている。
耳郎さんが背中を撫でながら、麗日さんが握るジョッキと水のコップをすり替える。
2年に青山君が自主退学して、心操君が編入して。
卒業して僕が抜けて、1年遅れて青山君が追い付いて、A組は20人で肩を並べてプロヒーローをしていた。
僕にとって自慢のクラスメイト達。一生の宝物の思い出。
「…うん」
21人分の席は均等に割れなくて、僕は机の短辺で泡の萎えたビールを抱える。
両手で包んだジョッキは段々と冷たさを失ってきている。
「ごめんね」
怖かった。皆とどんどん離れていく距離を一番感じるんだろうこの場が。
僕だけがずっと、高校の頃の思い出に縋って生きているのが、皆といるときっと透けてしまう。
奇跡みたいな経験をさせてもらった。
僕には身に余る事だから、母校で還元させて貰えるならこれ以上の人生の消化はきっとない。
そうやって整理して片付けた3年間を、引っ張り出して散らかして、膨らませてしまうんだ。
20人分も一斉に目の当りにしたら、僕は流しきれない。
だから僕はずっと、この場に来ることが出来なかった。
「ありがとう」
「……っ」
麗日さんは震える口をきゅっと結んで、渡された水のコップを抱えている。
いつの間にか静まった居酒屋で、皆が僕らを見ていた。
「呑も!」
水のコップが僕のジョッキに当てられて、麗日さんは勢いよく全部を飲み干した。
追いかけて口に入れたビールはやっぱり温くなっていて、炭酸も抜けて苦味ばかりが喉を落ちていく。
麦を焦がしたようなロースト臭とアロマの甘さが混じった香りが、苦い液体に逆流して生温く鼻を抜けていく。
「ええね!まだいけるやろ?」
「うん!」
皆と一緒にまたヒーローがやれるんだ。
夢みたい。僕はまた、夢をみさせてもらえる。
「緑谷、料理も食えよ」
轟君が傍に移動してきて、気に入ったらしい前菜を勧めてくる。
「あ、うん」
頻繁に会っていたのにぎこちなくなってしまった返答に轟君は少しだけ笑って、割り箸を僕へ差し出した。
夢みたいだ。このフワフワした感覚はきっと、一杯目のビールのせいじゃない。
もう二度と味わうことは無いと思っていた浮遊感が、コスチュームだって脱いでいるのに纏わりついて離れない。
「轟君がこんなに隠し事上手なんて、僕知らなかった」
この浮ついた状態をどうにかしたくて、二杯目のジョッキを空ける。
まだ全然食べ物も口に入れていないのに、なんだかお腹もいっぱいな気がしてきた。
「だろ」
浮遊の扱い方なんて、8年で忘れてしまった。
地に足がついていない感覚が、少しだけ怖いのかもしれない。
「緑谷!これも食え!」
目の前に料理が集められていく。
机はたくさんあるのに皆がぎゅうぎゅうに集まって座るから、コースを進める店員さんは少し戸惑っていた。
真っ暗な道を街灯がぽつぽつ照らす道に、プロヒーローがぞろぞろと散らばる。
「緑谷、二次会行くだろ」
21人。僕を、ぼくを含めて。
本当に、ぼくを含めて。
夢みたいだ。
僕に都合の良過ぎる夢なんて、あれで最後だと思っていた、のに。
「出久は帰れ」
かっちゃんは街頭に照らされて少し逆光になっていた。
記憶よりも背が伸びたみたいだ。黒基調の服は光を反射することもなく、表情は見えない。
「なんでだよー」
僕の肩に腕を回した切島君は僕に体重をかける。
酔った誤作動か、少しだけ肌が硬化している。ここまで酔った切島君は初めて見たから、なんだか嬉しい。
「出久おまえ」
かっちゃんは切島君の頭を押しのけて、傍にいた瀬呂君へと渡した。
前に出たかっちゃんの顔が街灯に照らされる。
店で最初に顔を合わせた時と変わらない様子だった。かっちゃんは、お酒強いのかな。
「帰っておばさんと話せ」
お店の中では緩く笑っていたかっちゃんは、顔を硬くして僕を見る。
”気をつけてね”
スマホに入っていたお母さんのメッセージは、それで終わっていた。
僕が夕飯が要らなくなったことを伝えたことへの返事。いつもと変わらないメッセージ。
お母さんは、このこと喜んでくれるかな。
反対されるかも。あの時だって凄く心配かけて、何度も泣かせてしまった。
「…うん」
ごめんなさい、
それでも、僕はもう、これを離したくないよ。
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「かっちゃんこっちなの?」
帰るメンバーと一緒に駅へと入って、それぞれの路線へと別れる。
乗り換えでまた減って、かっちゃんと2人きりで電車に揺られる。
「…今日は俺も実家」
電車で吊革も持たずにポケットに手を入れて僕を見るかっちゃんは、ぶっきらぼうに応えて窓の外へと顔を逸らした。
釣られて眺めた窓の中で、かっちゃんとまた目が合う。
夜の光と混ざったかっちゃんの目は、今度は逸らされずに僕をじっと見ている。
「そ、っか」
身体の中が柔らかく抉られていくような感覚がして、外の景色へと視線を逃がした。
アルコールのせいか、心臓がバクバク動いて耳の血管を震わせている。
「……」
かっちゃんは何も言わない。
何か…何か、言わなきゃ。
お礼、は、さっき言ったし…何か、
「……おばさんと話終わったら」
「へ」
「電話しろ」
窓の中からこっちを見たまま、かっちゃんはそう言って視線を落とした。
「…でっ…番号、変わってないんだ…?」
卒業してから、何度か連絡をとろうとした時はあった。
引っ越し終わったの?
ニュース見たよ。
ビルボードチャートに名前載ってたね。
雄英に教育実習が決まったよ。
卒論が終わったよ。
教採も通って、教師になったよ。
大活躍だったね。
大怪我してたね、
聞きたいことも、伝えたいこともいっぱいあった。
でも、どれも言えなかった。
はじめてだったから。
幼馴染で、一緒に遊んで一緒にご飯を食べて、一緒に寝てた。
嫌われたり無視されたり、蔑まれたり、…
それでも僕らは、いつも同じ場所にいて、同じ方向に歩いていた。
はじめてだった。
君の視界に、僕が映らない世界。
歪んでなんかいない。お互いが真っ直ぐに進んでいるはずなのに、息苦しくて、君に縋りたくなる。
前に進んでいく君の後ろ手を引くようなことはしたくなかったし、僕自身がそんなことは耐えられなかった。
「変える理由ねーだろ」
「そっか」
かっちゃんの視線の先で畑と山が流れていく。
毎日見ている光景だけど、かっちゃんが並ぶと異質さすら感じる。
8年前は見慣れた光景だったのにな。
「座ろ」
人もまばらになった車内で隅の席に座る。
かっちゃんは向かいの席に座り込むと、手すりに肘をついてボンヤリと僕の方を眺めている。
帰る時間、お母さんに伝えないと。
膝の上に置いたコスチュームケースには18番のナンバリング。10年前から変わらない、僕の居場所。
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「おかえり」
かっちゃんは別れ際にもう一度、「終わったら電話」とだけ残して、実家に帰っていった。
「ただいま」
リビングのテーブルには湯呑み1つとハンカチだけが置かれている。
キッチンは調理した形跡もない。お母さんも今日は、外で済ませたのかな。
「お父さんと電話してたの」
「え」
「夏に一回、こっち帰ってこれるって」
スマホを撫でるお母さんの目元は少しだけ腫れているように見える。
なんで、…いや、オールマイトかな。僕のことで、先に来てくれたのかも。
「あのね、お母さん」
「……うん」
お母さんはテーブルに目を落としたまま、緩く笑っているようだった。
「僕、ヒーローに戻るよ」
スン、とお母さんが鼻を啜る音が響く。
コスチュームケースを握る手に力が入る。
悲しませるって分かってた。拒絶されるかもしれない。許してもらえないかもしれない。
それでも僕は、戻りたい。
「…ごめん」
「ーーーッ出久、」
椅子から立ち上がったお母さんは、背伸びをして僕の首に腕を回した。
引っ張られて屈むと、ギュウギュウと抱きしめられる。
「っおか、」
「お、めでとう…」
「っ」
お母さんをぶら下げたまま、ゆっくり床に腰を下ろす。
お母さんは僕の握ったコスチュームケースを抱えると、僕の胸に押し付けて、ケースごと僕をもう一度抱きしめる。
「よかったね」
「お母さん、」
「……ッ、よかったね、」
ぎゅうぎゅう僕に抱き着きながら、耳元で聞こえるお母さんの声は震えている。
手放しに喜んでいるわけじゃないんだ。だから、お父さんに電話してたんだろう。
「出久、」
「…うん、ありがとう」
「……無茶しないでね」
「……うん」
「ふふ、ほんとかな」
お母さんは呆気無く離れると、立ち上がってテーブルのハンカチで目元を拭った。
「出久はこの約束守ったことないからなぁ」
「えっ……と……」
「頼むよーほんとに」
お母さんは薬缶に水をいれるとコンロにおき、火にかける。
急須に茶葉を入れて、お茶を煎れるようだ。
「勝己くんは?」
「かっちゃん?」
「来てるんでしょ?」
「…なんで?」
自分の湯呑みをシンクに置いたお母さんは、新しく湯呑みを3つ戸棚からテーブルに出した。
「一緒じゃないの?」
「……なんのこと?」
「…んー…?……火見てて」
お母さんはコンロを離れてリビングを出ていく。
なんでかっちゃん?確かに一緒に帰ってきたけど、かっちゃんは家に帰ったし。
そういえば落ち着いたら電話って言われたな。落ち着くってほど揉めなかったけど。
廊下の向こうで玄関のドアが開く音がした。お母さんがウロウロと家中を動き回っている。
「かっちゃんは家に帰ったよ?」
「んー…」
玄関から戻ってきたお母さんに声をかけるけど、納得していない様子。
かっちゃんと何かあったのかな?
スーツのジャケットを脱いでハンガーへとかけつつ、ネクタイも解く。
そろそろクリーニングに出さないとな。
ガラガラ音を立ててお母さんがベランダに出る。
かっちゃん、何処に居ると思われてるんだ。泥棒じゃあるまいし。
「いた!」
「え?!」
ベランダの手すりから身を乗り出して、お母さんが声を上げた。
慌てて素足のままベランダに出る。
「なんでいるの?!」
「……」
はるか下の道路でブロックに腰掛けたかっちゃんが、バツの悪そうな顔でこっちを見上げて、頭を搔きながら俯く。
さっき実家に帰るって言ってたはずなのに。
「上がっておいで!」
お母さんが声を上げると、かっちゃんは立ち上がって小さく頭を下げて、トボトボと歩き出した。
電話かけるタイミングなかったな。かっちゃん、あそこで電話待ってた、のかな。
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3人分のお茶がテーブルに置かれる。
かっちゃんは静かに家に上がってきて、小さく縮こまって誘導されるままにテーブルに腰掛けた。
でっかくなったかっちゃんが、お母さんの前で小さくなってる……。
「勝己くん」
「…ハイ」
妙な光景に置いてかれてるのは僕だけのようで、おかあさんは僕をかっちゃんの隣に座らせて自分は向かいに座った。
「出久をよろしくね」
「え」
「はい」
「え?」
本当に僕だけがついていけない。
なんでかっちゃんは此処にいるの?なんでお母さんはよろしくしてるの??
「出久はヒーローになるなら、住む場所も変えないと」
「あ、うん…」
「もっと忙しくなるからね」
学校と家の往復だけじゃなくなると思うと、確かにその方がいい。
生活のリズムも不規則になるし、何より怪我をした時にお母さんに小さいのまで見せなくて済む…というのは黙っておこう。
「勝己君に甘えすぎないようにね」
「僕がかっちゃんに…?」
「大丈夫ス」
「なにが??」
お母さんは混乱する僕を見て、かっちゃんに目配せをして小さく笑った。
かっちゃんは固まっていた身体を少し緩めて、一緒に口角を上げる。
「えぇ…?」
かっちゃん、横顔もちょっと、大人びたというか。
かっちゃんの視線が僕にうつる。
「っ、」
戸惑ってばかりの僕にかっちゃんが悪戯が成功したみたいに笑う。
その顔は高校の頃にもよく見たそのままで、僕は記憶の中と今との違いについていけない。
「なんなの、いつの間に仲良くなってたの?」
「ンだそれ」
「えー、ヒミツだよねぇ」
「っスね」
二人して顔を見合わせて楽しそうに笑う。
僕はそれだけでもついていけないのに、翌日から更にかっちゃんの《いつの間に》が怒涛の勢いで待ち受けていたから、ヒーローに復帰するまでも、してからも、戸惑う暇すらなかった。