三十路に入ってしばらく、社会人としての生活にもいい加減に慣れて、都会への出張を一人で任されることも増えた。
取引先のそこそこの役職の方に誘われて、夜の呑み屋街へと連れ込まれ、酒の相手をさせられる。向こうは会社の経費で落ちる楽しい食事になるんだろうが、俺にとってこの無賃労働は苦痛でしかなかった。はやく帰りたいのに、終電が無くなりそうだ。指定席を予約していた新幹線は、3時間前には出発してしまった。
「イヤー!」
接待を終えてトボトボと駅に向かって歩いているところで、女性の甲高い声が聞こえた。接待していた取引先はさっさとタクシーで帰ってしまい、一人で呆然とその場に立ち尽くす。何やらぬるついた液を辺り一面にまき散らして、巻き込まれたオッサンが滑って転んでいた。シュウ、と音と共に煙が立ち上って、オッサンはくぐもった声をあげる。
「ぉ゛、ア……だ、ずけ」
「ち、近づかないで……ッ」
酔いすぎたオッサンが暴漢と化して、パニックになった女が個性を暴発させた、ってところだろうか。酸に近いモノなんだろう、液体を身体に纏わり憑かせて、シュウシュウとオッサンの服が煙を上げていく。
「ア゛ヅ、あづい…だれか、」
目線を降ろすと、アスファルトまで緩く液状化をはじめているように見えた。人体にかけるには強過ぎる。オッサンのスーツは溶け落ちて、真っ赤に焼け爛れた肌が見える。
「離れてください!」
最近よく聞くようになった声と共に、ヒーローが液の中に降り立つ。足元でジュウジュウ音が鳴るのも気にせずに、蠢くオッサンの腕を自分の肩にかけ、自分の身長よりもデカいオッサンを軽々と担ぎ上げた。オッサンの全身に纏わりついた液がヒーローにかかる。ジュウジュウ、ヒーローのスーツも煙をあげはじめる。
「分かりますか?声は出ますか?」
「ァ゛……で、ぅ、」
「はい、デクです。もう大丈夫です」
「さっさとそのオッサン水にぶち込め!」
追いかけるように飛び込んできた別のヒーローが、錯乱する女性の傍に降り立つ。「抱えるぞ」と女性の目を見て声をかけると、誰か分かったのか女性も気を落ち着けて大人しくヒーローに身体を預けた。消防車のサイレンが聞こえ、警察によってバリケードテープが張られる。POLICE LINE DO NOT CROSSの文字の向こうで、ダイナマイトとデクが救急隊に二人の当事者を引き渡した。デクのスーツは酸に溶かされ、所々変色して形が変わり始めている。
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二人とは折寺中学で同級だった。二人が仲の悪い幼馴染なのは同学年の中では有名な話だ。一際目立っていた勝己が、地味で目立たない緑谷に毎日のように絡んでいたから。
緑谷は地味で無個性なオタクくんだったけど、虐められるようなタイプではなかったと、今になってみれば思う。挙動不審で揶揄いがいのあるヤツではあった。けど、どんくさいわけでもなく、頭が良くて運動もそれなりに出来ていた。二人きりで会話すると、良い奴なんだなとすぐに思えるやつだった。
勝己が嫌うから、なんとなく皆それに合わせていただけだ。世界人口の20%が無個性なんだから、緑谷の他にも無個性な中学生はそこそこに居た。皆一様に劣等感を抱えていたし、個性を持つやつは無個性をバカにしていた。
けど、実のところ俺のお婆ちゃんも無個性だ。個性を持ってるお爺ちゃんと結婚してから、個性の出る家系になっただけで。そんなやつ、いっぱい居るんじゃないか。無個性を馬鹿にしながらも、自分が持っている個性だって、大して役には立てていないし。
緑谷は個性が無いだけで、当時から実はそんなに[デク]じゃなかった。ヒーロー科は無理でも、サポート科や経営科なら緑谷にピッタリなんじゃないかと、思っていたのは俺だけじゃないはず。
勝己だけはずっと、緑谷をグズで何も出来ないデクだと言っていた。放っておけばいいのに。誰にも迷惑をかけていないし、雄英を受けて落ちたなら落ちたで、思い切り笑ってやればいいのに。緑谷の一挙手一投足が気に入らないというように、絡んで脅して、好き放題に緑谷へ当たっていた。
勝己は虐めには一切加担しなかった。内申に響いたり、将来ヒーロー活動をしている時の足枷になることはしないと、みみっちいことを言っていた気がする。カツアゲや物を隠して遊ぶどころか、陰口にも絶対に参加しなかった。俺達が誰かを否定しはじめると、つまらなそうに舌打ちをして離れていってしまっていた。緑谷以外には。緑谷でさえなければ。
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「鞭で拾えばいいだろうが!何お前まで浴びとんだ!」
ダイナマイトがデクに喚いている。「傷が広範囲だったから」とデクはダイナマイトに反論しながら、ヒーロースーツを解除していく。ナノマシンが離れて露わになったシャツは所々溶けて、デクの肌も赤く変色しているのが見えた。隙間から酸が入り込んだらしい。それを見たダイナマイトは、一層声を荒げてデクを救急車の傍に引きずっていく。
「無駄な傷作っとんじゃねぇわ、ザコが」
「必要な怪我だよ、火傷もそこまで深くないし」
デクの動き一つ一つに丁寧に文句をつけながら、ダイナマイトは救護班にデクの肌を見せる。女を先に拾ってからじゃないと、二次被害が出る可能性があったとか、せめて接触範囲の狭い抱え方をしろだとか、小言は泊まらない。
意外だと思った。ダイナマイトはその粗暴な言動とは裏腹に、チームアップに強いと何処かの記事で読んだから。仲間の個性を上手く使い、信頼し、仲間に合わせて動くことに長けているらしい。
確かに昔からそうだったと納得出来た記事だった。傍若無人に見えて、周りを見て動けるやつだった。どんなにパッとしないやつとグループワークになっても、そいつが出来ることを見極めて役割を振れるやつだった。アイツが一人でやればすぐに終われることでも、内申に響くとぶつくさ言いながらも、周りを活かせるヤツだった。
デクは治療を受けながら、ダイナマイトへ言い返す。科学熱傷の深度三に見えたと小難しい説明をしながらも、要はオッサンの怪我が酷いから一番優しい救出をしたかったと言っているようだ。俺には、デクが間違ったことを言っているようには感じられない。むしろヒーローとして素晴らしい意見のように思える。それでもダイナマイトは退かずに、自分の意見を通そうとデクに噛みついている。
「ダイナマイト、デク!一言お願いします!」
「大・爆・殺・神ダイナマイト!だわ!いまコイツと話してんだ!」
「分かった、分かったから!大丈夫ですよ、受けます」
「てめぇ、いなしてんじゃねーぞ」
デクは治療を終えて、救急車から降りた。包帯の巻かれた身体を隠すように、溶けたシャツを着直してジャケットを羽織る。報道陣へと向かって、ダイナマイトとデクは歩いていく。
「帰ってから聞くから」
小さくデクが呟いた言葉が、俺にはそう聞こえた。ダイナマイトは途端に大人しくなり、大人しくデクと共にバリケードテープをくぐって報道陣の前に立つ。
「酔っ払いの痴漢行為が原因との話がありますが」
「警察による取り調べが行われてから、正式に公開される予定です」
「デクの負傷について教えてください」
「大したことは無いですよ、丁寧に治療していただきましたから」
「……」
まるで大きな犬のように、ダイナマイトはデクの後ろで大人しくしている。はやく終われとでも言いたいのか、「さっき同じ質問しただろ」と報道陣に睨みをきかせて、隣に立つにこやかなデクが肘鉄を入れた。ぶつくさ文句を言いながら、足をトントンと揺すっている。
「終わりだ、終わり。話がなげーんだよ」
「もー、……すみません、よろしいでしょうか?」
甘えてるのか。そう考えると、ストンと辻褄が合うように感じられた。
緑谷なら、キツくあたっても受け止められると思っているんだ、アイツは。
虐めても緑谷なら勝己の評価が下がるようなことはしないし、傍若無人に振舞っても緑谷なら勝己を見限らない。緑谷なら、勝己が何をしても勝己が困るようなことはしない。
デクなら、ダイナマイトが好きに動いてもついてこられる。デクなら、ダイナマイトが何を騒いでも受け止めることが出来る。
ダイナマイトはデクの負傷した足を握り、ひっくり返すように持ち上げた。まるで獲物を捕らえた狩人のようにデクを宙に浮かせたかと思うと、背中に腕を回して抱き上げ、飛び去って行く。
デクが文句を言う声はすぐに小さくなって、俺達には聞こえなくなった。
変わってねぇ。けど、二人の関係は随分と変わったみたいだな。
「俺も甘えられる恋人が欲しいわ……」
金曜の夜、新幹線はもうない。一人寂しく泊まるビジネスホテルを探して、俺はスマートフォンを撫でた。