僕は高校2年の体育祭には出なかった。
残り火はまだ残っていたし、先生方の計らいのおかげでヒーロー科に残留することは許してもらえていた。

その代わりに、メディアに出ることは一切禁止された。

ヒーローとしての僕はあの場で終わったんだと、嫌でも理解出来る条件だった。
大人達は無個性になる僕の身の安全を護るために、「デクが緑谷出久で、緑谷出久は無個性になった」という事実を必死に守ってくれた。

同級生の皆も、それと同時に僕を「デク」と呼ばなくなった。
元々僕のことをそう呼ぶ人はあまりいなかったけど、麗日さんだけは時々言いかけては、少し悲しい顔をして「緑谷君」と言い直していた。

全部僕を護るためだって分かってた。
インターンはスーツを着ないで、市販のジャージでマスクをして単位をとった。
残り火が消えて高校を卒業するまで、そんな毎日が続いた。

だから、いつの間にか「デク」の存在すら世間では認知されなくなっていったのは、少し救いのように感じた。
デクのことを知る人が減れば減るほど、僕の中のヒーローになりたかった自分も、我武者羅だった自分も消えていくように感じた。

教員実習で雄英高校に戻ったら流石に生徒は皆デクの事を知っていて、ヒーローだった頃の僕を根掘り葉掘り聞かれて、軽くしたお腹を抉られているような気分だった。
「他の先生みたいにヒーロースーツを着て欲しい」って何度も言われた。けど、僕はもうヒーローじゃないから、自分のコスプレなんて出来ない。

そうやって8年雲隠れした「デク」が復帰すると、メディアはまた高校生の頃の僕を何度も擦り始めた。
1年の体育祭の僕は、当時は気味悪がられたはずだったのに今では英雄譚の一部のように美談として語られている。
インターン活動中のことも、カメラに見切れる僕を何度も何度もワイドショーで放送された。
大学で話したこともない同級生が講義中の僕の様子や交友関係について語り、メディアの中で僕というヒーロー像が勝手に作りあげられていく。

「デク」が僕の中に帰ってきたと思ったら、全く別の存在になっていたみたいだ。

皆が求める「ヒーローデク」はまるで聖人で、泥臭いけど慈愛に満ちた完璧な人。博愛主義者でパートナーを持たない。

パートナーを持たないって、まあ、確かにこの歳になっても童貞だけどさ。
なんとなく、そういう感情が分からないまま此処まで来てしまっただけで。

4位だった頃のかっちゃんも同じだったのかな。
作り上げられていく自分の虚像なんて、かっちゃんは1番嫌いそうだ。

だから、ああやってわざと本来の自分を世間に見せているのかも。相変わらず強いよな。
等身大の自分を見せられる君だから、自分の価値を正確に見積もれるし、自分の特別なものを見つけられるんだろうか。

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「入試の時、僕は個性を受け取ったばかりでさ」

お互いの乗る線路は真逆だったから、駅前のカフェで話すことになった。

「覚えてるよ」

「ありがとう。…僕にとって大事な思い出なんだ」

「…私も」

すぐ側の窓から、外の様子がよく見える。
行き交う人を眺めながらゆっくりコーヒーを飲むのなんて久しぶりだ。

「僕はずっと、かっちゃんに雄英を受けるなって言われてて」

「そうなん?…まあ、危ないしね」

「あはっ…そんなんじゃないと思うよ、誰にも応援してもらえない夢だったから。4歳になってから15歳のあの時までずっと」

麗日さんは視線を落として、カップの中のストレートティにミルクを注ぐ。
透き通った紅茶はすぐに濁って、混ぜているスプーンの先を隠した。

「麗日さんに助けてもらって、はじめて…オールマイト以外の人にも認められた気がしたんだ」

「えぇー?」

「勝手に背中を押してもらえた気になってたんだよ」

「そりゃあ…よかった」

麗日さんは少し頬を染めて、カップからスプーンを出した。
ソーサーへ置かれたスプーンがカップの向こうに見える。

「”デク”も、かっちゃんが昔つけてさ、ずっと嫌だったんだけど」

「爆豪君悪ガキだ」

「んふっ…そうそう!」

かっちゃんが悪ガキって、面白いな。
実際そうだったもんな。今度本人に言ってみよう。

「でも、麗日さんがいい意味に変えてくれたでしょ」

「頑張れって感じの?」

「そう!世界が変わったんだよ、あれで」

「大袈裟な」

麗日さんはカップを両手で包んで、揺れる水面を眺めている。
スプーンで混ぜられた波が少し残っているようだった。ぐるぐる、回転するようにゆっくりと揺れている。

「だって、かっちゃんに”デク”って呼ばれても、辛くなくなったんだよ」

「仕返し成功?」

「仕返しっていうか…ずっと出久ってまた呼んでもらいたかったけど、そうじゃなくてもいいやって、僕が思えたから」

コーヒーをまた一口含む。
窓の外でカップルが腕を組みながら歩いている。女性の方は大分酔ってしまっているのか、男性に少し体重を預けているようだった。高いヒールが千鳥足に耐えている。

「麗日さんがいたから、今の僕があるよ」

「…うん」

「弱い僕を変えてくれて、ありがとう」

「そんな大袈裟なことしてないよ」

麗日さんはようやくカップに口をつけると、勢いよくあおった。
熱くないのかな。
まるでビールジョッキのように中を開けた麗日さんは、ふぅと息を吐いて席を立つ。

「おかわり買ってくる!」

「え、あ、うん」

一杯だけのつもりだったんだけど、まあいいか。

窓の外に視線を向けると、僕を見つめる男性と目が合った。
少し口角を上げて頭を下げて見せると、ペコペコとお辞儀をしながら去っていく。

「お待たせ!」

麗日さんがマグカップを握って席に座る。
今度はコーヒーを買ってきたらしい。少し息をつくとすぐに黒いそれに口をつけて、また両手で包む。

「それで?」

「え?」

「なんか悩んでるんでしょ?」

「え」

麗日さんはマグカップを両手で包みながら、じっと僕を真正面から見つめてくる。
麗日さんの手の中で、コーヒーは前後に波立っている。

「弱い顔してる」

「そ、んなことは」

「爆豪君に何言われたん?」

「…かっちゃんに?」

「聞いていいなら、だけど」

麗日さんは少し悪い顔をして、コーヒーを口に含む。
手元のマグカップに視線を落とす。しんと静まり返ったコーヒーに僕の顔が映った。

「…自分を高く見積もらないと、気付けるものに気付けない、とか」

「…ほお」

「皆特別…は、誰も特別じゃない…とか」

「……うん」

コーヒーに映った僕が喋る。
弱い顔、だろうか。いつも通りの僕の顔に見える。

「分からなくてさ」

「どっちも?」

「うん…だって今、僕すごい高く担ぎ上げられてる気がする」

「担ぎ上げられるって」

「幻のヒーロー、だよ。身に余り過ぎる」

「あーあれは本人は嫌かもね…でも、そうやって卑下し過ぎるなってことだよ」

「ん…ガッカリされるのが怖いんだと思う」

教師だって講演会だって、僕の思うことを喋らせてもらえてる。
だけど、僕と話すことを喜んでくれる人たちの「理想のデク」に、時々息が苦しくなる。

きっとこれは誰でも感じることなんだろうな。誰かの求める自分じゃないことに、申し訳なくなる気持ち。
自分が本当は矮小な人間だと気付かれた時、その人は離れていってしまうんだろうかと不安になる。

「”特別”だってさ、自分を高く見積もることと、どう繋がるのかな」

かっちゃんみたいに等身大の自分を見せたって、チャートも落ちたじゃないか。
それでも15位にいるのは凄いことだけど。

「かっちゃんは特別に気付いたのかな」

パートナーが出来たとか、聞いてないぞ。
私生活で認め合える人が出来たから、他の人が離れても大丈夫ってこと?

そういうの話してもらえるくらいの仲にはなってると思ってた。

「…爆豪君の特別な人が、気になる?」

「…まぁ、そりゃ気になるよ」

あのかっちゃんのパートナーだし。
高校の頃から女の子に囲まれはじめたけど、結局浮いた話の一つも出なかった。
プロになってからも、スキャンダルはそこそこ出てたけどその日のうちに本人のSNSで「ガセ」ってだけ呟かれて終わってる。
広告の仕事も少ないから、かっちゃんのSNSは時々「ガセ」が2連続で続く。こんな広報活動で15位なのは、よく考えると凄い。

「私は?」

「え?」

「私の特別な人…気になる?」

「いるの?」

「うん」

コーヒーから視線を上げると、同じようにこちらを見上げていた麗日さんと目があう。
優しく口角を上げた彼女の長い睫毛がゆっくりと伏せられて、瞼の上の化粧がライトに反射してキラキラと光る。

「そ、うなんだ。聞いていいの?」

麗日さんも、大人の女性になったんだな。
魅力的な女性になって、特別な人を見つけて。
順当に進んでるって感じだ。

「気になる?」

「え、う…ん。差し支えなければ」

「爆豪君と同じくらい?」

伏された睫毛はパシパシと素早く震える。
俯く彼女の髪が肩から前へと落ちて、サラサラとテーブルに影を作った。

「デク君は、誰の特別な人が知りたいの」

遠くで電車の警笛が聞こえる。

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