帰宅と同時に「ただいま」を言わなくなってしばらく経つ。

暗い部屋の電気のスイッチを自分でつけて、リビングの片隅に置いているチェストの右上の引き出しを開ける。
此処に引っ越して最初に向かった100円均一で買ったビニールのポーチ。中身はもうすぐ1センチくらいの厚みになる。

中にまた今月分のお金を入れる。向きを揃えて入れないと怒られるから、一度全部出して、揃えてまた入れる。

高校を卒業したばかりの僕達には贅沢過ぎる物件だった。
ガスコンロは3口あって、独立洗面台は収納も豊富で大きくて、お風呂も大きな湯船がついている。
個室が2つとリビング。古い鉄筋コンクリートのマンション。

家賃は8万円で、きっちり半分に折半。
引き落とし口座はかっちゃんのものだから、僕は毎月光熱費と合わせて5万円をこのビニールポーチに入れていた。

明細書を見ると電気代や水道代が高騰していて、僕が入れているお金じゃフェアじゃなくなってしまうから、少し多めに入れることもあった。
その度にかっちゃんはその中を抜いて押し返してきた。

ATMが小銭を受け付けないだとか、妙な端数を入れたくないだとか。
それならと1万円単位で増やしても、貧乏学生が調子に乗るなって返される。

プロの収入とアルバイトでは確かに負担感が違うだろうけど、それでも僕は申し訳なくて、心の置き所が分からないような、落ち着かなさがあった。

「……」

僕の背よりも大きい冷蔵庫に買ってきたコンビニ弁当とビールを袋ごと入れる。
明日の朝のパンも入っているけど、弁当食べる時にでも出せばいいか。

野菜室には使い方も分からない調味料と米をとりあえず詰めてある。
冷凍庫にはアイスと業務スーパーの冷凍野菜が少し転がっている。

ジャケットを脱いでリビングの椅子にかける。
ネクタイもその上に放り投げて、ワイシャツのボタンを外しながらガス給湯器のスイッチを入れる。

今月はポーチの中に12万円を入れた。
社会人になってしばらく、こうして少しずつ、入れるお金をこっそり増やしている。

シャワーだけで済ませても、ガミガミ言われることもない。
浴室を出るまえにさっさと洗ってしまう習慣は染み付いていて、相変わらず綺麗を保てている。

毎月変えろってうるさいから月末に2本買うようにしている歯ブラシも、かっちゃんのカラーだけが洗面台の引き出しに溜まり続けている。
並べていた歯ブラシは1本抜かれたまま、僕のものだけが立っている。

プシ、と炭酸の抜けていく音がリビングに響いた。
水滴が落ちる髪をタオルに埋もれさせながら、冷えたビールを喉に押し込む。

炭酸が膨らみながら喉を刺していく。
3回ほど喉を鳴らして胃に落とすと、圧迫感で目に涙が浮かんでくる。

「っぁ〝ーーーーーー………」

地方遠征と海外遠征が重なっているらしい。
忙しいみたいだから必要のない連絡は控えるようにしていたら、もう何週間か文字すら送りあっていない。

家も電気も水道も、家具も家電も僕だけが数ヶ月使っている。
だから折半する理由がなくて、この家はしばらく僕だけの住処になっている。

テーブルの上に放置された、札束で膨らんだ100円均一のポーチ。
此処に引っ越してきた時は毎月抜かれて空になっていた。

「ッ、」

流し込んだ炭酸がせり上がってくる。
流石に押し込めて一呼吸置いて、缶の中身をあおる。ショート缶はそれだけで空になってしまった。

相変わらず引き落としはかっちゃんの口座から落ちている。
前に溜まった分を送金しようかと提案したけれど、手数料が勿体無いとかで断られてしまった。

労働基準法とか、どうなんだ。
プロはそりゃあ、事務所とは業務委託契約だろうから、そういった法律に守られることは無いんだろうけど。

休みは移動中をそれとしているらしい。

でもきっと、僕もプロヒーローになれていたら、そうしていたと思う。
だから何も言えない。そうしてただ、僕はこの家に残り続けている。

ひょっとしたら別に家を借りていて、そっちがメインの拠点になっているのかも。

それなら、僕はいよいよこの家にいる理由がない。

もっと狭くていいし、コンロだって一口あっても使うかどうか。
リビングも本当は必要ない。食事は自分の部屋でパソコンを見ながら食べればいい。

スマホを朝ぶりに開くと、オールマイトからのメッセージが入っていた。
来週あたりに帰国するんだとか。具体的なフライトの予約はまだ決まっていないけど、夜に食事でもどうか。

かっちゃんの海外遠征と同じくらいのタイミングでオールマイトも日本を出ていた。

かっちゃんよりも、オールマイトの方がはやく帰ってくるのか。まあ、同じ仕事なわけでもないだろうし、関係ないか。

どちらも僕は関知出来ない仕事だから、知る由もない。

(お店予約しておきますから、フライト決まったら教えてください)

オールマイトからオールマイトのスタンプが返ってくる。
僕もまた、別のバージョンのオールマイトのスタンプを返して、スマホをスリープしてテーブルに置いた。

コンビニ弁当の底で申し訳なさそうにクシャクシャに寄れて縮こまっているレタスを口に入れる。
今日の野菜コレだけかも。流石に、さすがにマズいか。青汁でも飲もうかな。

消音モードになっているスマホが光る。住宅情報のアプリがまた通知を発生させたらしく、独居用アパートを見せびらかしてくる。

分かってる。

分かってる。ただ、もう少しだけ、今回の遠征が終わったらまた、きっと帰ってくるから、それまで。

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