「緑谷さん」
人生で1番の清々しい目覚めだと、根拠もなく確信した。
真っ白で薄暗い天井。消毒液の臭いと、等間隔になり続ける電子音。僕の心拍に合わせて部屋に響いている。
「分かりますか?」
視界の端に真っ白な服でタブレットを抱えた女性がぬっと現れた。ポチポチと芯を引っ込めたボールペンで画面をつつきながら、時折僕の顔をチラチラと見ている。
「はい」
応えて、自分の声がすんなり響いたことに少し驚いた。僕が此処で目覚めた場合、大体が応えようとしても声が出なかったり、そもそもマスクで塞がれていたり、喉に管が通っていたりした。この場面で僕の返答が掠れないのは珍しい。
「おはようございます」
「…おはようございます」
看護師さんは僕が応えるとすぐに、「先生呼んできますね」と踵を返して部屋を出ていってしまった。
自分の鼓動を感じるほどの静寂。それに一瞬遅れて電子音が続いている。
僕はどうして此処にいるんだったか。
全身の何処も痛みを感じない。身体から出ているチューブも1つもなくて、ただバイタル計測だけが行われている。
ともすれば個性事故だろうか。
(よく寝たな…)
分からないことが多過ぎるのに、そんなことは大したことではないと思えるくらい、頭がスッキリしている。
個性や脳への衝撃で記憶が飛んだことはあるけど、その時はもっと気分の悪い目覚めだった。頭に黒い靄がかかったような、何かを自分は求めているのにそれが何か分からない歯痒さ、気持ち悪さ、思い出せない自分の至らなさ。
そんな最悪な気分が目覚めた途端に一気に押し寄せる。いつもそうだった。
(何日くらい寝てたんだろう?)
今はそれが全くない。何故自分が此処に居るのかも、此処が何処なのかも、今日が何月なのかも分からないのに、凄く心地良い。いつもが黒い靄なら、これは白い靄かな。そもそも何も無かったのかもしれないし、無くなってもこんなに平気なら、大した記憶じゃないのかもしれない。
「緑谷さん、おはようございます」
ノックと同時に上品な動作で男性が部屋に入ってきた。
白衣を着て如何にも医者ですといった風貌の男性は、背後に先程の看護師さんを連れている。
「ご気分はどうですか?」
「問題ないです。ただ僕、何も覚えてなくて」
「それはよかった」
看護師さんは時折僕の方を見て笑いかけながら、タブレットをポチポチとボールペンの先でつついている。
身体を起こすと、男性が一歩足を踏み出して背中を支えてくれる。目の前に胸元の名札が寄ってきて、彼の名前と肩書きが分かった。
「治療は成功したようですね」
「え?」
臨床心理士の男性はベッドサイドの椅子に腰掛けて、看護師さんからタブレットを受け取る。
画面を少し操作して、それまで横向きだったタブレットを縦に傾けて僕に見せた。細かな文字が並んだ資料が回転する。
「人格分離ですよ。緑谷さんのご希望です」
左上には国立病院の名前が載っている。かっちゃんが腕を治した病院と同じ。
右下には僕のサインが入っている。すぐ上に同じく僕の筆跡で描かれた署名日は、タブレットの端に表示された日付と全く同じだった。
今からたった数時間前に、僕はこの資料にサインをしている。