勝己は仁王立ちになったまま、ターンテーブルの奥から自分のキャリーケースが流れてくるのを眺めていた。
本来であればリュック1つで十分だったところを、前日になって母親に無理矢理入れ替えさせられたものだ。
神経を繋ぎ合わせたばかりの右腕に負担をかけるべきでないといえばその通りであったが、そのせいで機内持ち込みに出来なくなってこのように待ち惚けをくうはめになった。
父親の出張用の頑丈なキャリーケースはやけに大きく、中は容量の半分以下の荷物しか入っていない。帰りにこの中が埋まるほど土産を買って来いと母親に強請られていることを思い出して、勝己は憂鬱な気分でため息を吐いた。

「あ、おい」

 ターンテーブルの上をゆっくりと流れて来るキャリーケースを、勝己の手前で緑のモサモサが拾い上げる。いつもの黄色いリュックを荷物でパンパンに膨らませた出久は、先ほどまでターンテーブルには用が無さそうに飯田達と話をしていたはずだった。

「病人扱いすんな」

 困ったように眉を下げて笑った出久が「ごめん」と頭をかく。本当はこのまま勝己の荷物を運びたかったのだろう。諦めたように「はい」と差し出されたキャリーケースを、勝己は大人しく受け取る。

「気圧大丈夫だった?」
「問題ねぇ」

 相澤含めクラス全員に聞かれるんじゃないかと思うほど何度も問われた言葉に、勝己は疲れたように返した。つい数か月前に破れたばかりの心臓で飛行機に乗ったのだから、皆が心配するのは当然だ。実際のところ、主治医からも同じ言葉をかけられていた。機内で調子を崩した時のために頓服薬を追加処方されていたことは、相澤以外には話していない。

「そう?僕は脚が浮腫んじゃったよ」
「ザコ」

 相澤の後に連なって空港の出口へと歩いていく。一年前と変わらないI・アイランドの景色に、出久は懐かしそうに目を細めてスマートフォンのシャッターを切った。来られなかった恩師に送るつもりなのか、辺りをパシャパシャと写すレンズがこちらに向けられたので、勝己は見ていたことが気付かれないよう視線を逸らす。

「楽しみだなー![ヴィラン・アタック]!」
「おー!去年よりは流石にスコア上がるだろ!」

 前方から切島と上鳴の声が聞こえる。アレか、と勝己が去年を思い出していると、出久も横で「ああ」と楽しそうに呟いた。

「懐かしいね」
「……お前もやんの」

 勝己は少しの期待と不安を悟られないよう、視線を前方から外さずに出久へ問いかける。残り火を無駄に使わせたくない反面、出久の挑戦が見てみたい気持ちも捨てきれなかった。今の出久なら、どんな動きであの場を制するのか。想像するだけで気持ちが盛り上がる。

「ううん、僕は見学」

 出久はポケットへとスマートフォンをしまう。「皆の挑戦を見るのが楽しみ」と笑う出久を横目に、勝己は「あっそ」と極力感情を表に出さないように返した。

 もう、やりたいとすら思わねーのか。
 今のお前ならこの場の誰よりもいい動きが出来るのに。観客席に座って、その手にノートとペンを持って目を輝かせるのか。

 出久に勘付かれないよう、重たい息を静かに吐く。ガラガラとうるさい嵩張るだけのキャリーケースを前方へと振り、取っ手を持ち替えて床から上げた。修学旅行に高校生らしくはしゃぐクラスメイト達の中、勝己だけが退屈そうに眉間に皺を寄せていた。


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「なんだよ」

 個室のドアをノックする音に、勝己は不機嫌を隠さずに返答する。薄く開いた扉の向こうで、小綺麗なスーツに身を包んだ出久が立っていた。いつもの癖毛は整髪料でオールバックに抑えつけられている。夕食会にドレスコードがあるとかで、勝己も着替える前にシャワーを浴びたところだった。

「手伝うよ」

 出久は勝己の返答を待たずにするりと部屋へ入ってくる。タンクトップ姿の勝己の横を通りぬけ、ジャケットを脱ぎ傍のハンガーへとかけ、シャツの袖をいそいそと捲った。テーブルの上に転がされた勝己の荷物を手慣れた様子で手に取りながら、ベッドに座り込んでその隣をポンポンと叩いて見せる。勝己は大人しくそこへ座り、右腕を出久へと差し出した。

「やっぱりちょっと浮腫んでない?」
「大したことねぇ」
「ダメだよ我慢したら」

出久に捕まれた部分がジンジンと痺れる。出久はテーブルから取ったクリームを勝己の手の甲に出し、指先から腕へと血液を押し流すようになぞった。ゾゾゾと響く強い痺れに耐える勝己を見ながら、慎重に勝己の腕を動かして壊死が起きていないか確認していく。

「この前寮でやった時より、痺れ強そうだね」
「感覚が戻ってきとる証だろ」

傷だらけの勝己の腕を抱えて、出久は「そっか」と嬉しそうに笑う。新しいサポーターを着けられ、甲斐甲斐しくシャツまで着せようとボタンを外しはじめる出久を、勝己は好きにさせてやることにした。「はい」と腕を通すように差し出され、大人しく従う。

「お前こそ、痩せたんじゃねーの」

出久のシャツは肩が少し余っているように見える。「え」と驚いたように目を見開く出久を横目に、勝己はベッドから立ち上がった。さっさと左手でシャツのボタンを一人で留めていく。

「筋トレサボってんなよ」
「あー……実習出ないとやっぱり運動量が足りなくて」

気まずそうに頭を掻きながら、出久はテーブルから三角巾を取って勝己の右腕へと巻き付けた。ゆっくりと左肩に固定される。

「僕、そもそも筋肉付きづらい体質なんだった」

なんでもないように言う出久に、勝己はムカムカと腹が立つのを感じた。ジャケットが肩にかけられ、「行こっか」と出久も自分のジャケットを羽織る。

「またヒョロガリに戻ってんじゃねーぞ、ダセーから」
「分かってるよ」

 勝己の脳裏に中学時代の出久が思い起こされる。貧弱で自信が無く、いつも怯えた目でこちらを見ていた。勝己がどんなに蔑んで否定しても、ヒーローになる夢を諦めなかった頃の出久だ。

「先生になったら実技もやらせてもらいたいし、メニュー考えないとね」

 やってみないと分かんないんじゃなかったんか。無個性でも、なるだけなっときゃいいじゃねーか。
お前にはその資格がある。その素質がある。それなのに。

 三角巾の中の腕が酷く痺れる。勝己は肩からぶら下がる重い塊へ手を伸ばし、三角巾からはみ出た手の甲へと爪を立てた。
手からビリビリと肩近くまで痺れが響く。


 こんなもの、すぐに元通りに治してみせる。
 卒業してプロヒーローになったら、トップを掴んでやる。

 目指すものは昔から何一つ変わらない。それなのに、酷くつまらない人生のように思える。
 ヒーローになったその先に、俺は何を求めているんだろう。
 

 出久は勝己を置いて部屋を出て、ベッドの前に立ち尽くす勝己を廊下から不思議そうにのぞき込んだ。
「大丈夫?」とこちらを伺う出久に視線を合わせることも無く、勝己は奥歯をギリギリと噛みしめながら、その横を通りぬけて会場へと歩いた。


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 食事会には雄英生だけでなく、開発者たちも集まっていた。大戦の中継を見ていたらしい開発者たちは各々が功労者との業務提携を望み、高校生相手に営業をかけている。
勝己もその例外ではなく、むしろ一際多くの開発者に囲われてウンザリしていた。他の生徒は自分の個性にあったサポートアイテムの営業をかけられ楽しそうにしている中、勝己だけは右腕の補助器具の話ばかり持ちかけられる。

「すぐ治すんで。いらないッス」

 目の前には豪勢な食事が並べられているが、胃がムカムカとして食べるどころではない。
離れた場所で、開発者に囲われることもなく一人の女と楽しそうに食事をしている出久が見えた。女は確か、一年前にも会った。メリッサといったか、出久とやけに親しかったはず。

 出久の元に開発者たちは留まらない。功績を称えて言葉を交わし、握手をしたかと思うとすぐに離れていく。
無個性になったことを知っているからだ。出久はプロヒーローにはならないから、サポートアイテムを必要としていない。

「部屋戻る」
「え?体調悪ぃのかよ」
「ちげぇ」

 勝己は纏わりつく開発者たちを振り払い、早々に会場を出た。
会場の重たい扉を閉めた途端に中の音は一切遮断され、薄暗い廊下はしんと静まり返っている。

「……クソ」

 呟いた言葉が廊下に敷かれた柔らかいカーペットへと落ちた。久しく持たずに居られたはずの身勝手な苛立ちが頭を占めていき、やり場のない怒りに革靴を床へと叩きつける。ポフンと優しく受け止められるような感覚がして、余計に苛立つ。

 誰もおかしいと思わないのか。
デクがプロヒーローにならないことを。あの場で開発者たちに期待すらされず、ただ握手会のように扱われるアイツを。
デクは記念に握手するようなヤツじゃねぇ。愚図で間抜けで、クソナードで、……、

ヒーローだ。

イカれてるくらい、アイツはずっとヒーローだ。今もそれは変わらない。無個性になったからといって、アイツの性質は何も、


「かっちゃん!」


 廊下を駆けてきた出久は乱れた髪を気にする様子もなく、勝己の顔を心配そうに覗き込んだ。「大丈夫?」と数刻前にも聞いた台詞を問いかけてくる。


「やっぱり調子悪い?」


 出久の手が伸びてくる。その手にも腹が立って、勝己は弾くようにその手を拒絶した。出久は慣れた様子で、それでも伸ばした手を退くこともなく寂しそうに彷徨わせている。


「腕のサポートアイテムの話、ちゃんと聞いた方がいいよ」
「いらねぇ、すぐ治す」
「そうは言っても、今を支える道具は必要だよ」


 勝己は怒鳴りつけそうになるのをなんとか耐えるので精いっぱいだった。
ここで怒りを出久にぶつけてしまったら、過去の自分と何一つ変わらない気がした。


お前はどうなんだ。どうしてお前には何も声がかからないんだ。
お前だってヒーローなのに。お前がすげーやつだってことは、あの会場の誰もが知っていることなのに。


 出久の夢を否定することは、邪魔をすることだけは、もうしたくはなかった。
自分の思い通りにならない現実に癇癪を起しているだけだ。
分かっていながら、自分はそんなに間違ったことを考えているのかと、誰かに問いただしたくなる。


「お前も、あったらいいんじゃねーの」


 言い終わったところで、絞り出した言葉は出久を傷つけるかもしれないと気付く。
はっと勝己が顔を上げると、出久はキョトンとした顔でこちらを見返したあと、困ったように眉を下げた。


「僕はもう無個性だからね」


 諦めたように笑う。勝己に伸ばしていた手を後頭部に当てて、いつものようにアハハと乾いた笑いを見せる。
勝己は歯をくいしばり、飛びついて殴りたくなる衝動を耐えた。右腕の痺れが強かった。握り締めた左手に呼応するように、右手も拳を作ろうと震えていた。


「諦めてんじゃねぇよ」
「へ?」


 出久は勝己のそんな様子を心配して、ゆっくりと近づいてくる。勝己は目の前に迫った出久の胸倉をネクタイごと掴んで、その胸に頭を埋めた。慌てた様子で出久が勝己の手を抑える。


「言えよ、ヒーローになりたいって」


 止まらなかった。出久を傷つける言葉だと分かっていながら、勝己は止めることが出来なかった。


「1回だけでいいから、言えよ」
「かっちゃん、」
「あがけよ、前みたいに」


 出久は本心ではプロヒーローになりたいんだと、出久の言葉で聞きたかった。
全部吹っ切れたように、もう未練が無いように振舞う出久が、何よりも勝己に痛みを与えていた。


「やってみなきゃ、分かんねーだろ」


 掴んだ出久の胸倉に縋り、勝己は目を閉じて祈るように呟く。
出久の中に過去の木偶の棒を探していた。どんなに周りに否定されてもヒーローを諦めなかった頃の、あの学ラン姿の出久が、目を開いたら居てくれないかと願う。


「……かっちゃんにそんなこと言われる日がくるなんてね」


 出久の手が勝己の背中に添えられる。
その手が震えていることが分かって、勝己はようやく目を開いた。ぱたりと勝己の目から落ちた涙がカーペットに吸われていく。


「なるよ。最高のヒーローに」


 静かに、吐き出すように頭上に落とされた言葉が、勝己の胸に刺さった。
勝己の背中に添えられた手が、堪えるように背広をぎゅっと掴む。
出久は勝己に言葉をかけながら、自分自身を諭していた。


「形が、違うだけだよ」


 出久はもう、決して勝己と同じ道を歩もうとはしない。勝己がどれほど振り返っても、勝己を追いかける出久はいない。
それは出久の本心で、本当にやりたいことなんだろう。


「ありがとう、かっちゃん」


 勝己の肩に出久の顔が伏せられる。背広越しに温かく濡れていく感覚がして、勝己は掴んでいた胸倉を離した。

勝己と小さい頃に願った夢も、捨ててしまったわけじゃない。
閉じ込めて、思い出にしてしまったんだ。

勝己だけが、まだ思い出に出来ずにいる。


「……クソデクのくせに」
「……うん」


出久が閉じ込めた夢を、こじ開けて引きずり出してやりたい。
そのために、俺はヒーローになる。


_____________________


 勝己は重厚なドアの横に設置されたチャイムを鳴らし、応答を待っていた。
スピーカーから何らかの声がかかるのかと身構えていたところ、あっさりと開かれた扉に面食らう。


「いらっしゃい」


 目の前に立つメリッサは嬉しそうに頬を綻ばせて、勝己を研究室内へと迎え入れた。
「お邪魔しまス」と呟きながら、誘導されるままにソファへと腰を降ろす。
朝の研究室にはメリッサ以外誰も居なかった。思ったよりもこじんまりとした空間を、勝己はキョロキョロと見渡す。


「腕のサポートアイテムのこと?」
「……はい」


 メリッサは嬉々として勝己の腕にサポートアイテムを装着していく。
肩の神経の生体電位信号を元に動くらしいその器具は、勝己の痺れた指先を意思通りに動かすことが出来た。ジンジンと痺れを伴いながらも、右手は勝己の意思通りにメリッサの持つ本を取り上げる。


「……すげぇな」
「よかった。日本に持って帰る?」
「お願いしまス」


 メリッサはケースと共にスペアをもう一台部屋の奥から引っ張り出してくると、勝己の前のテーブルへと置いた。無駄に大きなキャリーケースはこれで埋まりそうだ。


「これなら、例えば……腕から伸ばした鞭を自由自在に動かす、とかも出来るんか」


 勝己の言葉に、メリッサは柔らかかった表情を硬くする。
差し出された書類へと記入する手を止めて、勝己はメリッサをじっと見返した。見開かれた目は真剣な表情へと代わり、メリッサはコーヒーの入ったマグカップをテーブルへと置く。


「私だけの力じゃすぐには難しい。もっと柔軟な発想を出来る人が必要だよ」


 勝己は右手を硬く握りしめた。強い痺れが響く。無理矢理に曲げられた手が、痛みを感じているのだとわかった。


「分かった」


勝己はもう、迷わなかった。強い視線で見返す勝己を見て、メリッサはごくりと息をのみ、震えそうになる唇をぎゅっと引き締め、その口角を上げた。

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