毛玉

シャワーあがりに冷蔵庫を覗いていると、小さな毛玉が足元をすり抜けていった。
いつ買ったかも覚えていないミネラルウォーターを片手に、戸棚と壁の隙間へと入ろうとして詰まる毛玉を眺めた。両手に収まるほどの大きさで、緑色の毛が生えている。
毛玉は自分が戸棚の裏へと隠れられないことを悟ると、ホラー映画のヒロインのような青ざめた顔でゆっくりと振り向いて、首を百度ほど回したところでピタリと止まった。
ミネラルウォーターのキャップを捻り、口をつけて傾けている間もその様子を眺めた。毛玉は少しも動かずにそこに居た。
「なんだお前」
キャップを閉めて足を一歩踏み出すと、毛玉はびくりと身体を震わせた。二歩三歩と近づくと、もぞもぞと動いて隙間から身体を出し、こちらに向けた。目の前にしゃがみ込むと、俺の身体で間接照明の光が遮られて、両手を広げて威嚇しているらしい毛玉は真っ暗な影に埋もれる。
「何の個性だ」
毛玉の首根っこを掴んで拾い上げる。思ったよりもずっしりと重くて、ソイツの首の皮はギチギチに伸びた。痛いのか「ぎぃ」と鳴いて暴れるので尻を支えてやると、スンと大人しくなってじっとした。静かになった途端に「ぐぅ」と腹が鳴る音が聞こえて、毛玉は俺の手の上で腹を抑えて気まずそうに顔を背ける。
「腹減ったのか」
言葉が分かるのか、毛玉は俺の言葉にちらりと視線を寄こした。警戒している様子の毛玉を連れて、俺は再び冷蔵庫を開けた。
「何食うんだよ」
ガラガラで殆ど何も入っていない庫内を毛玉に見せてやると、毛玉は目を輝かせて弾かれたように庫内に飛び移り、チルド室の引き出しを引っ張って、中に転がっていた魚肉ソーセージを抱えた。
「消費期限知らねーぞ」
毛玉は満足そうに抱え込んだ魚肉ソーセージへと頬ずりをしている。腹を鷲掴みにして拾い上げると、毛玉は魚肉ソーセージを抱えたまま大人しくじっとしている。
ダイニングテーブルに毛玉を置いて、椅子に座ってミネラルウォーターを飲みながら毛玉を眺めた。毛まみれの手では赤いシールが剥がせないのか、金具の部分を齧って引っ張っている。
「下手くそかよ」
顔を不細工に歪めて、必死になって魚肉ソーセージの包装を引きちぎろうとしている。俺は面白くなって、頬杖をついてしばらくその様子を眺めた。少し包装が破れると、毛玉は嬉々としてその小さな穴から中身をちゅうちゅうと吸った。
「貸せ」
ひと通り楽しんだので、ソーセージを奪う。毛玉は焦ってソーセージを追いかけて両腕をあげたが、それ以上は何もしなかった。ズタズタに食い破られた先端をハサミで切り落し、末端を絞って中身を出し、毛玉の口元に近づける。毛玉はにゅうっと飛び出てきたまるまるのソーセージを嬉しそうに両手で抱えて、口いっぱいに頬張った。
「寝るか」
毛玉はその小さな身体をパンパンに膨らませて、魚肉ソーセージを一本全部平らげた。テーブルの上にだらしなく腹を上にして転がり、けふっと息をついている。
その様子を見ていると全部がどうでも良くなって、椅子から立ち上がった。ダイニングの明かりを消して廊下に出ると、毛玉がするすると足元へと滑り込んできて、一緒に寝室へと潜り込んできた。

翌朝になっても毛玉は居た。枕の横に丸くなって転がっていて、俺がベッドを降りてスプリングが大きく軋んでも起きる様子が無かった。だからそのまま置き去りにして、家を出た。
「おはようございます」
「ン」
所長室の前で、事務員が書類を抱えて立っていた。
事務員より遅く来るのは初めてだったから、戸惑っていたらしい。俺に書類を渡すと、事務員は部屋に入らずに下の階へと戻っていった。書類の中身は毛玉のことではなかった。
プロ向けのデータベースを調べても、毛玉に該当する個性は見つからなかった。
何処かで個性を引っ掛けてきたにしても、心当たりがなかった。
潜伏期間も分からず、詰めきったスケジュールのどれが該当するのか皆目見当もつかない。
今日は先立っての依頼は無かったから、適当に巡回をすることにした。帰りにコンビニで魚肉ソーセージを買って帰れば、それで良い気がした。

帰ると、毛玉は玄関の上がり框に座り込んでこちらを見上げていた。コンビニ袋をぶら下げたまま、しばらくその視線と見つめ合った。「ぐぅ」と毛玉の腹が鳴って、ようやく土間に身体を全部入れる気になった。靴を脱いでいる間に毛玉はコンビニ袋を覗き込んで、そのままころりと袋の中へと落ちた。
「何食う」
魚肉ソーセージの他にも、弁当や総菜を買ってきた。ダイニングテーブルの上に、毛玉と一緒にそれらを並べた。
毛玉は最初に魚肉ソーセージの束に飛びついて、一本引き抜いてやると抱え込んだ。それから、ソーセージを抱えたまま他の食料を吟味し始めて、かつ丼に目をつけて離れなくなった。
「どっちか一つな」と言うと、「ゔ」と汚い鳴き声を出してごねたが、俺が冷蔵庫の中へと食料を片付け始めると、堪忍したのかソーセージを手放してかつ丼を抱えた。電子レンジへと入れる道中もくっついて離れないので、首根っこを掴んで無理矢理に引きはがした。
「全部は食えねぇだろ」
醤油皿を出してその小さな身体に見合った量を盛ってやると、毛玉は「ぶぅ」とまた汚く鳴いた。ぶぅぶぅ言いながら皿を空にする。俺は残ったかつ丼を食べながら、空になった皿へまた米とカツを乗せてやる。結局、三分の一くらいを平らげて、毛玉はまた腹を上にしてダイニングテーブルへと転がる。
小さいくせにやけに食うので、自分も食い足りない気分になった。冷蔵庫からパスタサラダを取り出して食べきり、シャワーを浴びて戻ると、毛玉は一ミリも動かずにダイニングテーブルの上に転がっていた。
「寝るぞ」
テーブルを片付けてダイニングの明かりを消す。直前まで寝ていたはずの毛玉は、いつの間に起きたのかするすると廊下へ出てきて寝室へと先に入っていく。追いかけると、既に枕元に丸まって寝息をたて始めていた。

真夜中に目が覚めた。からからに喉が渇いている気がして起き上がると、ずっしりと身体が重かった。喉から繋がって胸も腹も全部がらんどうになった気分なのに、身体だけが床に引っ張られているように重い。
近頃はよくこうなる。スーツの譲渡が終わって、金が余るようになってからこうなった。
預金残高の数字が膨らんでいくのと反して、身体は重く、中身は空洞。
仕事をする。金が溜まる。仕事をする。特に使い道のない金が溜まる。

気分を変えたくて外に出ると、寝ていたはずの毛玉ものそのそと玄関をすり抜けてきた。俺が歩くと、歩幅の違いの分だけ毛玉は走る。歩いているだけで毛玉との距離は離れて、エレベーターの扉を開けたまましばらく待った。
「もう待たねぇぞ」
公道に出て、当初の目的だったランニングをはじめる。すぐに毛玉は置き去りになったが、曲がり角で振り向くと、遠くで必死に走っている姿が見えた。
曲がってしばらく、ゆっくり歩く。次の曲がり角まで来て振り向くと、ようやく前の角を曲がった毛玉が見えた。小さいのがぴょんぴょんと跳ねながら走ってくる。
気になって、走る気になれなかった。
思うように自由に走るはずが、後ろの毛玉をつい振り向いてしまう。どんなに置き去りにしても遠くに小さな毛玉が見えて、嫌になって毛玉の元へと戻り、「失せろ」と言った。
毛玉ははっとした顔をして、のそのそと傍の生垣へと身体を滑り込ませて消えた。

朝起きても、枕の傍に毛玉はいなかった。仕事へ行って、コンビニに寄って帰る。冷蔵庫に惣菜が増える。
三日それを繰り返すと、玄関の前に毛玉が転がっていた。俺に気付くと、ゆっくりと汚れた身体を起こして恐る恐るこちらを見上げている。
『ただいま』『帰ったよ』『怒ってる?』『まだ怒ってる?』
そんなことを言いたげに、もじもじと身体を縮めて、謝っているように見えた。俺の機嫌を伺うように、脚に身体をすりすりと擦りつけてまわる。
「……入れば」
玄関を開けてやれば、すぐにすり抜けるように家の中に入っていく。汚れた手足で、廊下に黒い泥汚れが点々と出来た。首根っこを掴み、尻を支えながらダイニングテーブルの上に運んでやる。
毛玉は汚れた手をもじもじと擦り合わせながら、椅子に座った俺を見上げた。
『ごめんなさい』『まだ怒ってる?』
人差し指で汚れた頬を擦ってやると、毛玉はすりすりと頬ずりしてきた。親指で頭を撫でてやると、頭突きするようにグイグイと押してくる。
「……俺が悪かった。お前は何も悪くねぇ」
毛玉は俺の親指の爪くらいの手で、手の腹をぽんぽんと叩いた。ごめん、と言うと、叩く力が強くなる。
『ちょっと悲しかったよ』『ちょっと泣いたよ』
ぶぅぶぅ言いながら、しきりに叩く。叩くにまかせていると、どんどん遠慮のない強さになっていった。「痛ぇ」というと、叩くのをやめてこちらを向く。
『お腹空いたよ』
ぐぅ、と腹を鳴らす。冷蔵庫にパンパンに詰まった惣菜をダイニングテーブルに並べてやると、毛玉は一本抜かれたままの魚肉ソーセージを抱えた。先端をハサミで切って中身を出してやると、にゅう、と伸びたすり身を両手に抱えて、腹が膨れきるまで食いちらした。

翌朝。仕事に出ると、デクと会った。日曜だから、学校は休みだった。
アーマードスーツがよく似合っていた。想像通りに、すぐに使いこなしていた。
大した事件ではなかったが、デクは「予定がある」とかで、後処理もそこそこに帰っていった。

深夜に目が覚める。目が冴えているのに、頭は空洞になったように思考がまとまらない。
塵になっていくような感覚があるのに、身体はずっしりと重い。
水を飲みにダイニングに行くと、毛玉がテーブルに座っていた。
『行こうよ』『外に行こう』
毛玉は立ち上がり、軽い身のこなしでフローリングへと降り、玄関へと走っていく。
支度をして追いかけると、毛玉はすうっと宙に浮いて、俺の顔の傍の高さまで浮かび上がった。
歩く速度に合わせてふよふよと移動して、エレベーターにそのまま入り込んできた。
公道へ出ると、毛玉の移動は一気に速くなった。俺の走りよりもずっと速くて、気を抜くと見失いそうになった。
毛玉はひゅうっと高度を上げて、電線を越えて空に登っていく。爆破で追いかけるともっと高く登り、辺りのビルを越えて高く飛んだ。
風が冷たく、酸素も薄かった。ふぅっと息をつくと、口の周りが白く濁った。
雲が傍にあった。毛玉は気持ちよさそうに辺りをくるくると飛んだあと、雲に勢いよく突撃していって、そのまま埋もれて消えた。
「は?」
その雲はみるみる膨らんで、俺を飲み込もうとした。真っ白に澄んでいるように見えた雲は、間近に見ると灰色でどんよりと重たいものに変わっていた。
大きく膨らんだ雲は、中でバリバリと稲妻が弾けているのが見えた。その中へ手を入れて毛玉を探ろうとしたら、雲は爆発するように辺り一面に広がり、俺を飲み込んだ。
「出久!」
叫ぶと、とたんに雲は収縮して、俺の身体ははじき出され、後方へと吹っ飛んだ。強い衝撃を受けたように飛んで、寝息を立てている自分の身体に戻った。ベッドシーツが濡れるほどに汗をかいていた。

翌朝仕事へ出た。依頼は無いが、仕事着で家を出て空を飛んだ。
東京を出て西へと飛んだ。低いところを飛んでいると、駅への道を走る毛玉が見えた。
急降下してその両脇へと脚を突っ込んで羽交い絞めにする。爆破の勢いをピタリと止めて体重をかけると、俺の身体の重さに毛玉は両足を踏ん張って耐えた。
「かっちゃん!?」
そのまま真下へ爆破を出して、空へと飛んだ。
羽交い絞めした毛玉がぎゃあぎゃあと煩いので、雲と同じくらいまで高く飛んでやった。
高くて寒くて、さすがの毛玉も静かになる。
面白くなって、毛玉の職場へ向かって急降下を始める。毛玉は怯えて、俺の脚に必死にしがみついて「ぎぃ」と鳴いた。

 

 

オマージュ元:「夏休み」(「神様/川上弘美」収録)